中島砦をあとに丁野山砦に登りました。普段は何でもないような登りの勾配でしたが、暑さのため、休みやすみの登城になりました。
丁野山砦案内板
小谷丁野町の南西に存在する岡山の最高点・標高169m(平地からの比高70m)の場所に存在する砦跡である。
北・北東・東・南に支脈が伸びるが、それぞれに附属する曲輪が並んでいたことが「丁野山古砦の図」から読みとれる。同図によれば、永正15年(1518)7月に浅井亮政が築城、天正元年(1573)には朝倉義景の軍勢が小谷城の加勢に入ったとある。また、北の尾根(土砂採取のため、昭和37年頃に消滅、明治時代まで八幡宮があった)を「八幡ノ岡」、北東の尾根(現岡本神社の前身・山王権現があった)を「山王台」、東の尾根を「大鳳山」と呼んでいた。さらに、南の尾根は「山脇山」に連なる。 南北を大規模な堀切で画された、ほぼ正方形な主郭(現在地)には、周囲に横堀と犬走りを配しており、土塁を使用しない特異な形状を保っていることが、現状から観察できる。「信長公記」によれば、小谷落城直前の天正元年(1573)8月12日、「ようの山」には越前平泉寺の玉泉坊が籠城していたが、信長の攻撃が迫ったので降参し、越前国へ落ちのびたとある。「丁野山古砦之図」によっても、平泉寺衆徒や越前玉泉坊、それに堀江甚介など、越前朝倉氏の家臣たちが、信長の小谷城攻めに対抗するため、布陣した場所であることが記されている。
まず驚いたのは、枡形虎口があったことです。

枡形虎口
南側には大きな横堀がありました。
南側の横堀

南東の竪堀
南側は横堀と竪堀で遮断しています。結構大きなものでした。
本丸の北側も物見?との間に大きな堀がありました。

本丸北の堀
砦の一番北側には堀切があり、北からの侵入を防いでいました。

北側の堀切
丁野山砦は堀がしっかり残っており、見ごたえのある砦でした。案内板が言うように、中島砦には土塁があり、丁野山砦には土塁がありません。丁野山砦は曲輪が単郭のように見えますが、中島砦は2つの郭がありました。
この違いは、先回述べた「中島砦の敵は丁野山砦」に繋がる考え、つまり築城者が異なるのかもしれません。すぐ近くの砦なのに、こんなに違うのはどうしてか、謎が残る2つの砦でした。

丁野山砦案内板
小谷丁野町の南西に存在する岡山の最高点・標高169m(平地からの比高70m)の場所に存在する砦跡である。
北・北東・東・南に支脈が伸びるが、それぞれに附属する曲輪が並んでいたことが「丁野山古砦の図」から読みとれる。同図によれば、永正15年(1518)7月に浅井亮政が築城、天正元年(1573)には朝倉義景の軍勢が小谷城の加勢に入ったとある。また、北の尾根(土砂採取のため、昭和37年頃に消滅、明治時代まで八幡宮があった)を「八幡ノ岡」、北東の尾根(現岡本神社の前身・山王権現があった)を「山王台」、東の尾根を「大鳳山」と呼んでいた。さらに、南の尾根は「山脇山」に連なる。 南北を大規模な堀切で画された、ほぼ正方形な主郭(現在地)には、周囲に横堀と犬走りを配しており、土塁を使用しない特異な形状を保っていることが、現状から観察できる。「信長公記」によれば、小谷落城直前の天正元年(1573)8月12日、「ようの山」には越前平泉寺の玉泉坊が籠城していたが、信長の攻撃が迫ったので降参し、越前国へ落ちのびたとある。「丁野山古砦之図」によっても、平泉寺衆徒や越前玉泉坊、それに堀江甚介など、越前朝倉氏の家臣たちが、信長の小谷城攻めに対抗するため、布陣した場所であることが記されている。
まず驚いたのは、枡形虎口があったことです。

枡形虎口
南側には大きな横堀がありました。

南側の横堀

南東の竪堀
南側は横堀と竪堀で遮断しています。結構大きなものでした。
本丸の北側も物見?との間に大きな堀がありました。

本丸北の堀
砦の一番北側には堀切があり、北からの侵入を防いでいました。

北側の堀切
丁野山砦は堀がしっかり残っており、見ごたえのある砦でした。案内板が言うように、中島砦には土塁があり、丁野山砦には土塁がありません。丁野山砦は曲輪が単郭のように見えますが、中島砦は2つの郭がありました。
この違いは、先回述べた「中島砦の敵は丁野山砦」に繋がる考え、つまり築城者が異なるのかもしれません。すぐ近くの砦なのに、こんなに違うのはどうしてか、謎が残る2つの砦でした。
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