鳴尾地区とは
鳴尾地区は鳴海小作争議において小作人たちが多く居住していたところです。下の地図は大正9年ごろの名古屋市南東部(南区と緑区の隣接する辺り)です。鳴尾地区は赤い四角の場所です。近くを鉄道が走っています。国鉄です。また東側は天白川です。天白川に寄り添うように扇川が流れています。天白川の周囲はほとんどが水田です。
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鳴海小作争議関連地図 銅像後援会「鳴海小作争議と雉本博士」より
100年たった
ところが、現在はというとほとんど田んぼはありません。住宅地、商店、工場などで埋め尽くされています。かろうじて川の流れとJR線が同じで、道も田んぼも山も大正時代の面影はありません。小作争議は大正6年(1917年)に起こりましたので、それからおよそ100年。100年もたつとこれだけ町の様子が変わってしまうのだと驚きです。
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現在の航空写真(グーグルから)
当時の子どもの目線で小作争議を見る
さて、大嶋光義さんという人がこの鳴海小作争議を子どもたちにもわかりやすくということで、物語仕立ての本を作りました。「鳴海小作争議をさぐる―鳴尾少年探偵団ものがたり」という本です。
大正11年3月、小作人の子達が親たちの様子を見て大変大事なことをしているに違いない、いったいどんなことをしているか、探検をしようということで、探偵団を作り、寺の和尚さんや小作人組合の中心的な人、地主さんなどにインタビューに行ったり、鳴尾から鳴海地区に探検に出かけたりするというストーリーです。当時の子どもの目線で小作争議をとらえてみようという意欲的な試みです。
鳴尾地区の見学
その本の巻末に鳴尾地区の見学コースが紹介されていましたので、さっそく行ってみることにしました。
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中汐田
見学は東から大慶橋を渡り、北のほうから鳴尾地区に入りました。大慶橋を渡る手前、地図にはありませんが天白川・扇川の東側に国道1号線の大きな交差点がありました。「中汐田」(なかしおた)です。鳴尾の小作人久野角左衛門が鳴海町の地主寺嶋彦一郎に対して「永小作権を認めろ」という反訴を起こしたときの対象の田地が「中汐田」です。
まったく読んで字の如しで、「汐田」。昔は海だったのを干拓して田んぼとしたので、「汐田」と言うのでしょう。今まで何度も通った道・交差点でしたがそういうことだったのかと知りました。
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国道1号線「中汐田」交差点
永井太左衛門の常夜灯
さて、鳴尾地区にはいると北の外れに神社がありました。「若宮八幡宮」といいます。ここに天保の年代の記名された常夜灯がありました。
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天保9年(1838年)江戸時代です。そして、その横に「永井太左衛門大江弘治」の銘がありました。
永井というのは調べましたら、あの永井荷風と関係があるそうです。鳴尾地区に昔から居住している名士のようです。
小作人が神社に寄進?
さらに神社の周りのコンクリートの柵に寄進者の名前がありますが、その苗字には「久野」姓が多かったです。「早川」さんも小作人の中にいました。「早川熊五郎」です。小作人とこの寄進者は関係があるのでしょうか。
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雉本朗造が演説した西来寺
つぎは「西来寺」です。「西来寺」は大正9年4月に京大教授法学博士雉本朗造がこの寺に小作人を集め、「永小作権」を主張した場所です。
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旧永井家
そして、その南には「旧雉本小右衛門宅址」及び「旧永井家屋敷址」があるはずでしたが、大正時代のままではありませんでした。雉本宅は全くわかりませんでした。しかし永井家には、こんな看板がありました。
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永井星渚という人が、宝暦11年(1761年)、にこの地で生まれたそうです。有名な儒学者だそうです。そして、永井荷風はこの永井さんの子孫だそうです。さきほど、神社に永井太左衛門の常夜灯がありましたが、やはり名士のようです。
永井さんでもう一つ、調べましたら、小牧長久手の合戦でなくなった池田恒興(池田勝入斎)、長久手古戦場に石碑(勝入塚)がありましたが、その池田を討ち取ったのが永井直勝で、この永井さんの遠い祖先に当たるそうです。世の中広いようで狭い。
さて、鳴尾地区の真ん中あたり「鳴尾の地主宅址」は、きれいな畑とマンションになっていました。
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昔を偲ぶ校舎址
最後に「旧鳴尾学校」現在の鳴尾公会堂は、昔の面影がありました。もしかしたら昔のまま残っているのかもしれないとおもいました。
鳴尾地区は鳴海小作争議において小作人たちが多く居住していたところです。下の地図は大正9年ごろの名古屋市南東部(南区と緑区の隣接する辺り)です。鳴尾地区は赤い四角の場所です。近くを鉄道が走っています。国鉄です。また東側は天白川です。天白川に寄り添うように扇川が流れています。天白川の周囲はほとんどが水田です。
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鳴海小作争議関連地図 銅像後援会「鳴海小作争議と雉本博士」より
100年たった
ところが、現在はというとほとんど田んぼはありません。住宅地、商店、工場などで埋め尽くされています。かろうじて川の流れとJR線が同じで、道も田んぼも山も大正時代の面影はありません。小作争議は大正6年(1917年)に起こりましたので、それからおよそ100年。100年もたつとこれだけ町の様子が変わってしまうのだと驚きです。
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現在の航空写真(グーグルから)
当時の子どもの目線で小作争議を見る
さて、大嶋光義さんという人がこの鳴海小作争議を子どもたちにもわかりやすくということで、物語仕立ての本を作りました。「鳴海小作争議をさぐる―鳴尾少年探偵団ものがたり」という本です。
大正11年3月、小作人の子達が親たちの様子を見て大変大事なことをしているに違いない、いったいどんなことをしているか、探検をしようということで、探偵団を作り、寺の和尚さんや小作人組合の中心的な人、地主さんなどにインタビューに行ったり、鳴尾から鳴海地区に探検に出かけたりするというストーリーです。当時の子どもの目線で小作争議をとらえてみようという意欲的な試みです。
鳴尾地区の見学
その本の巻末に鳴尾地区の見学コースが紹介されていましたので、さっそく行ってみることにしました。
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中汐田
見学は東から大慶橋を渡り、北のほうから鳴尾地区に入りました。大慶橋を渡る手前、地図にはありませんが天白川・扇川の東側に国道1号線の大きな交差点がありました。「中汐田」(なかしおた)です。鳴尾の小作人久野角左衛門が鳴海町の地主寺嶋彦一郎に対して「永小作権を認めろ」という反訴を起こしたときの対象の田地が「中汐田」です。
まったく読んで字の如しで、「汐田」。昔は海だったのを干拓して田んぼとしたので、「汐田」と言うのでしょう。今まで何度も通った道・交差点でしたがそういうことだったのかと知りました。
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国道1号線「中汐田」交差点
永井太左衛門の常夜灯
さて、鳴尾地区にはいると北の外れに神社がありました。「若宮八幡宮」といいます。ここに天保の年代の記名された常夜灯がありました。
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天保9年(1838年)江戸時代です。そして、その横に「永井太左衛門大江弘治」の銘がありました。
永井というのは調べましたら、あの永井荷風と関係があるそうです。鳴尾地区に昔から居住している名士のようです。
小作人が神社に寄進?
さらに神社の周りのコンクリートの柵に寄進者の名前がありますが、その苗字には「久野」姓が多かったです。「早川」さんも小作人の中にいました。「早川熊五郎」です。小作人とこの寄進者は関係があるのでしょうか。
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雉本朗造が演説した西来寺
つぎは「西来寺」です。「西来寺」は大正9年4月に京大教授法学博士雉本朗造がこの寺に小作人を集め、「永小作権」を主張した場所です。
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旧永井家
そして、その南には「旧雉本小右衛門宅址」及び「旧永井家屋敷址」があるはずでしたが、大正時代のままではありませんでした。雉本宅は全くわかりませんでした。しかし永井家には、こんな看板がありました。
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永井星渚という人が、宝暦11年(1761年)、にこの地で生まれたそうです。有名な儒学者だそうです。そして、永井荷風はこの永井さんの子孫だそうです。さきほど、神社に永井太左衛門の常夜灯がありましたが、やはり名士のようです。
永井さんでもう一つ、調べましたら、小牧長久手の合戦でなくなった池田恒興(池田勝入斎)、長久手古戦場に石碑(勝入塚)がありましたが、その池田を討ち取ったのが永井直勝で、この永井さんの遠い祖先に当たるそうです。世の中広いようで狭い。
さて、鳴尾地区の真ん中あたり「鳴尾の地主宅址」は、きれいな畑とマンションになっていました。
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昔を偲ぶ校舎址
最後に「旧鳴尾学校」現在の鳴尾公会堂は、昔の面影がありました。もしかしたら昔のまま残っているのかもしれないとおもいました。
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貴重な情報ありがとうございました。西来寺住職が仲介に入っていたことは知りませんでした。よく調べたいと思います。ありがとうございました。