愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

馬防柵 新城市

2014年11月04日 15時08分34秒 | 新城市
温泉にいった帰りにもう一度設楽原歴史資料館に立ち寄りました。

馬防柵は資料館から歩いて5分ぐらいのところにありました。


現代の地図に戦いの様子を記した地図(資料館パンフレット)


資料館と復原馬防柵のあたりを拡大した地図


南のほうから馬防柵を見た写真

 馬防柵はここだけではなく延々2キロメートルに及び作られたようです。織田と徳川で作り方が少し違っているそうです。


この馬防柵は「設楽原を守る会」によって復原されたようです。どこにも史跡を保存するグループがあるようです。

馬防柵は3段構え

柵の復原の一番奥にあった馬防柵が一番感心しました。おそらく当時もこのようであったのではないかと推測されています。

現地の説明版

 写真の右側が武田軍、左側が織田・徳川連合軍(鉄砲隊)です。武田軍は右のほうから攻めて来る訳ですが、この写真に出ていませんが連吾川という川があります。そして田んぼは夏なので水を入れています。それを越えても写真のように馬防柵の手前(武田軍から見て)に空掘りがあります。その空掘りを越えても柵があります。柵を越えても土塁があります。
 織田・徳川の鉄砲隊は写真の左の土塁の左側に隠れながら鉄砲を撃っていたようです。こうした馬防柵を2キロメートルにわたり作りあげたので、さすがの武田軍もかなわなかったというわけです。


武田軍の中には柵までたどり着いた豪傑もいたようですが、あえなく鉄砲に撃たれて討死してしまったようです。

連吾川


 おそらく何千という武田の兵士がこの戦いで亡くなられたのだと思います。連吾川は小さな川ですが、この小さな川が真っ赤になったこととおもわれます。「信玄塚」というのが近くに立てられており、毎年供養されているようです。

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