Ⅱ郭東の堀切
シルバーウィークも最後。天気も絶好調。ということで、城めぐりです。今回は、豊田市の椎(しい)城跡です。則定椎(のりさだしい)城とも言います。
豊田市はこれまでいくつか城を訪ねてきましたが、市が広いので、旧町名で分けると以下のようになります。
元の図は「豊田市のあゆみ」
鈴木氏とは
さて、今回訪ねた城は、旧足助町になります。戦国時代、足助は鈴木氏が勢力を持っていました。上記「豊田市のあゆみ」によれば、鈴木氏は、はじめ中条氏の被官でしたが、矢並を出発点として、市木から寺部へ、酒呑(しゃちのみ)・則定から足助、さらには小原へ。ほかにも古瀬間・九久平(くぎゅうだいら)・竹村・八桑(やくわ)・阿摺(あすり)に一族は広がったそうです。
鈴木氏一族「豊田市のあゆみ」より
天草に貢献した鈴木兄弟
則定鈴木氏については、鈴木正三、重成兄弟の話が有名です。鈴木正三は関が原の戦いに伴う真田氏との戦い、大坂の陣に参加しましたが、42歳のときに出家し仏教の道に入りました。そして、「世法即仏法」といって自分の職業に精進することが仏法の修行に通じるという考えなどを広めました。また、弟の重成が天草・島原の乱の後、天草の代官になったときは、重成に協力し、「破吉利支丹(はきりしたん)」を著して仏法によって人心の荒廃を救おうとしたそうです。
また、弟の重成は天草の年貢を軽減するために石高半減を幕府に申し入れましたが、聞き入れられずに自害したそうです。その後天草の代官に任命された重辰(しげとき、正三の実子、重成の養子)のときに石高半減が認められたそうです。(年貢そのものは軽減されなかったようです)
それで天草市には正三、重成、重辰の3人を祀る「鈴木神社」があり、今でも徳が称えられているそうです。
鈴木正三公園にある鈴木正三、重成の像
豊田市に、こういう人物のお話があるとは知りませんでした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます