9月25日、加茂一揆の主導者の一人辰蔵の家を見に行きました。辰蔵の家は下河内にあります。「豊田市史」「農民騒擾の思想的研究」によれば「下河内」というバス停があり、そのバス停のすぐ北にあるということでした。
現在の下河内
豊田市大内町下河内内、同町庄屋敷、同町寺田、同町宮脇のあたり
しかし残念ながら「下河内」というバス停は見つかりませんでした。あとでネットで調べたところ、今は「おいでんバス」が運行していて、「大内」というバス停でした。でも、それも見つかりませんでした。
下河内は、日明の方へ行く道と松平方面へ行く道との分岐点です。今は下河内から東のほうに行ったところに国道301号線と県道360号線の分岐点があり、県道360号線をまっすぐ行きますと日明のほうに行きます。しかし、その分岐点より西のほうに国道301号線から分岐する小さな道があります。その道は、下河内の集落を通り、県道360号に合流しています。
その西のほうの分岐点は、南に折れると、大給(おぎゅう)のほうに行きます。大給は、大給城もあった場所で、大きな村であったと思いますので、分岐点は、昔はここだったのではないかと思いました。
下河内村地図
下河内村西の交差点付近
そして下河内の奥のほうへ進んでいきますと、山際にたくさんの家が並んでいました。
「いったいどの家が辰蔵の家なのだろう」
手がかりもなく歩いているとき、ふと「鴨の騒立」の文を思い出しました。
後の話ですが、一揆勢が石御堂を出発した後、新井前、岩谷を経由して下河内の辰蔵宅に来ました。その時に、一揆勢が多勢で、家にはもちろん入りきれず、近くのお宮まで人であふれたという記事があったことです。
・・・(辰蔵の家に)弐千五百余人入来る。本宅・新宅・小家まで入たれ共尽きざれば、前の宮、後の軒端まで込み居て、・・・
「鴨の騒立」より
もしかしたら、近くに神社があるのではないかと思い、探してみました。すると、ありました。「大内神社」です。
大内神社
先ほどの地図でも確認できますが、下河内の東のほうに大内神社というのがあります。大内神社がいつごろからあるかは確認できませんでしたが、もし江戸時代から建っている神社であれば、「鴨の騒立」で記載されている「前の宮」とは、この大内神社の可能性があります。逆に言えば、辰蔵の家はこの大内神社の近くにあった、ということになります。
一揆では、この下河内の辰蔵の家に2500余りもの人が押し寄せてきたのです。家も神社もいっぱいになったのは、頷けます。
なお、「豊田市史」「農民騒擾の思想史的研究」では、近くに柿の木があるというので、それも探してみました。柿の木はありませんでしたが、切株は残っていました。ただし、何の木かはわかりませんでした。
切株
現在の下河内
豊田市大内町下河内内、同町庄屋敷、同町寺田、同町宮脇のあたり
しかし残念ながら「下河内」というバス停は見つかりませんでした。あとでネットで調べたところ、今は「おいでんバス」が運行していて、「大内」というバス停でした。でも、それも見つかりませんでした。
下河内は、日明の方へ行く道と松平方面へ行く道との分岐点です。今は下河内から東のほうに行ったところに国道301号線と県道360号線の分岐点があり、県道360号線をまっすぐ行きますと日明のほうに行きます。しかし、その分岐点より西のほうに国道301号線から分岐する小さな道があります。その道は、下河内の集落を通り、県道360号に合流しています。
その西のほうの分岐点は、南に折れると、大給(おぎゅう)のほうに行きます。大給は、大給城もあった場所で、大きな村であったと思いますので、分岐点は、昔はここだったのではないかと思いました。
下河内村地図
下河内村西の交差点付近
そして下河内の奥のほうへ進んでいきますと、山際にたくさんの家が並んでいました。
「いったいどの家が辰蔵の家なのだろう」
手がかりもなく歩いているとき、ふと「鴨の騒立」の文を思い出しました。
後の話ですが、一揆勢が石御堂を出発した後、新井前、岩谷を経由して下河内の辰蔵宅に来ました。その時に、一揆勢が多勢で、家にはもちろん入りきれず、近くのお宮まで人であふれたという記事があったことです。
・・・(辰蔵の家に)弐千五百余人入来る。本宅・新宅・小家まで入たれ共尽きざれば、前の宮、後の軒端まで込み居て、・・・
「鴨の騒立」より
もしかしたら、近くに神社があるのではないかと思い、探してみました。すると、ありました。「大内神社」です。
大内神社
先ほどの地図でも確認できますが、下河内の東のほうに大内神社というのがあります。大内神社がいつごろからあるかは確認できませんでしたが、もし江戸時代から建っている神社であれば、「鴨の騒立」で記載されている「前の宮」とは、この大内神社の可能性があります。逆に言えば、辰蔵の家はこの大内神社の近くにあった、ということになります。
一揆では、この下河内の辰蔵の家に2500余りもの人が押し寄せてきたのです。家も神社もいっぱいになったのは、頷けます。
なお、「豊田市史」「農民騒擾の思想史的研究」では、近くに柿の木があるというので、それも探してみました。柿の木はありませんでしたが、切株は残っていました。ただし、何の木かはわかりませんでした。
切株
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます