石亀坂では具体的に一揆の人数集めのために、各村々にお触れを出すことになりました。
渡辺政香「鴨の騒立」第4回 口上の趣
まず相談の一番頭は、加茂郡下河内村辰蔵、二番川向善四郎・川田の千蔵(1)・文六・椿木伊助・矢並次兵衛兄弟・林添藤兵衛・同じく佐平・松平村隆蔵・同近藤勇・菅沼村繁蔵兄弟・大津大吉・茅原村・七売村・大田村者集まり、廿人ばかりになった。村々へ言い継ぎ、申し送った。(2)
口上の趣
このたび8月の大風にて麦や米の値段が高騰した。大豆・小豆の類、また稗なども1升が52~3文となっているらしい。他国のことは分からないが、国中一統(3)難渋しているので、露命(4)もつなぐことが難しい。そこで、今日1000余人が相談するために、石御堂に集まってきてほしい。15歳以上60歳以下の男子はとりあえず来ていただき、帳面に名前を書くこと。もし不承知であるという村には、1000人が押し寄せ、家々残らず打ち崩すことになる。もし、遅れて来た村があれば、真っ先に庄屋を打ち崩すことになる。以上を申し次ぎ、言い送った。(5)
一説に言うには、下河内村辰蔵・七売村次兵衛の両人は、諸方へ村順に廻状を送り、徒党することに同意するべきであるという旨を残らず触れ回り、承知するかしないかを記録し、その村の庄屋の連印(6)を取った。もし不承諾の村方は家を壊し家財を打ち砕くとの趣に村方(7)は驚き、さして抵抗もなく同意・連印したので、人数は増え、100ヶ村余りが徒党に加わったらしい。(8)
注意書き
(1)先に千吉は九久平村とあるので、ここの千蔵(川田)は千吉とは別人と考えられる。
(2)「鴨の騒立」では、石亀坂に集まった村は、下河内村、川向、川田村、椿木村、矢並村、林添村、松平村、菅沼村、大津村、茅原村、七売村、大田村の11か村としている。ほぼ割木騒動で蜂起した村と重なっている。なお、豊田市史では、九久平、松平、下河内、林添、大給、七売、北川向、南川向、切二木の9か村の19名としている。前回の地図では、豊田市史の記述を採用した。
(3)一統 おしなべて、いちように
(4)露命 露のようにはかない命
(5)この言い継ぎ状は、村役人宛に出されているそうである。(高橋校注)
(6)連印 連判に同じ。1枚の紙に名前を列記し、押印すること。
(7)村方 村方三役の略。江戸時代の村役人で、名主(なぬし)(庄屋(しょうや))、組頭(くみがしら)(年寄(としより)、長百姓(おとなびゃくしょう))、百姓代(ひゃくしょうだい)をいう(ネット『コトバンク』)
(8)当初呼びかけの対象となった村は73か村であったが、「科書」によると参加者を出した村は加茂郡だけで239か村、他に額田郡が若干。(高橋校注)
人数を集める理由は、目標である酒屋、高利貸しなどへの圧力で、買い占め、物価騰貴の起こしている張本人である彼らに、人数で圧力をかけ、米価の値下げ、物価の値下げに応じさせるためと考えられます。
次に伝達手段ですが、辰蔵および次兵衛廻状が廻状を回したとあります。ということは、この二人は字の読み書きができたということ、また廻状の宛先が村方三役であることは、辰蔵、次兵衛が自分の村でそれなりの地位に居たことが窺われます。そうでなかったら、一揆の頭取に推挙されることはなかったとも言えます。
そして、一揆への参加は、個々人の意思だけでなく、村全体の意思として、村ぐるみで行われたことが窺えます。
また、文面を見ると、かなりの強制・恫喝が感じられます。『不承知であれば、家を残らず打ち壊す、遅れてくれば、庄屋の家を打ち壊す』。ことを起こせば、当然、藩役人に通報されたり、無視され参加しない村があることが予想され、一揆が失敗に終わる可能性があります。失敗すれば、当然処罰されます。そうなると、辰蔵ら頭取らにとっては、一揆を必ず成功させなければ自分の命に関わることになります。したがって、こうした恫喝や強制は不可欠であったと思います。
石亀坂 googleの地図に「石亀」という地名が残っていました。「豊田市史」では松平の柳助宅に集合する雰囲気になっていたところ、柳助が拒否したので、茅原村の地内にある石亀坂に移動したとありました。地図上の石亀というあたりではないかと探してみました。
石亀坂中腹の平たい土地
大田町、「茅原村」(現在は地名としてはありません)の方から松平に抜ける細い道がありました。登っていきますと、峠より少し松平寄りに平たい土地がありました。今資材置き場になっていました。もしかしたら、このあたりで集会が持たれていたのかも知れないと思いました。
渡辺政香「鴨の騒立」第4回 口上の趣
まず相談の一番頭は、加茂郡下河内村辰蔵、二番川向善四郎・川田の千蔵(1)・文六・椿木伊助・矢並次兵衛兄弟・林添藤兵衛・同じく佐平・松平村隆蔵・同近藤勇・菅沼村繁蔵兄弟・大津大吉・茅原村・七売村・大田村者集まり、廿人ばかりになった。村々へ言い継ぎ、申し送った。(2)
口上の趣
このたび8月の大風にて麦や米の値段が高騰した。大豆・小豆の類、また稗なども1升が52~3文となっているらしい。他国のことは分からないが、国中一統(3)難渋しているので、露命(4)もつなぐことが難しい。そこで、今日1000余人が相談するために、石御堂に集まってきてほしい。15歳以上60歳以下の男子はとりあえず来ていただき、帳面に名前を書くこと。もし不承知であるという村には、1000人が押し寄せ、家々残らず打ち崩すことになる。もし、遅れて来た村があれば、真っ先に庄屋を打ち崩すことになる。以上を申し次ぎ、言い送った。(5)
一説に言うには、下河内村辰蔵・七売村次兵衛の両人は、諸方へ村順に廻状を送り、徒党することに同意するべきであるという旨を残らず触れ回り、承知するかしないかを記録し、その村の庄屋の連印(6)を取った。もし不承諾の村方は家を壊し家財を打ち砕くとの趣に村方(7)は驚き、さして抵抗もなく同意・連印したので、人数は増え、100ヶ村余りが徒党に加わったらしい。(8)
注意書き
(1)先に千吉は九久平村とあるので、ここの千蔵(川田)は千吉とは別人と考えられる。
(2)「鴨の騒立」では、石亀坂に集まった村は、下河内村、川向、川田村、椿木村、矢並村、林添村、松平村、菅沼村、大津村、茅原村、七売村、大田村の11か村としている。ほぼ割木騒動で蜂起した村と重なっている。なお、豊田市史では、九久平、松平、下河内、林添、大給、七売、北川向、南川向、切二木の9か村の19名としている。前回の地図では、豊田市史の記述を採用した。
(3)一統 おしなべて、いちように
(4)露命 露のようにはかない命
(5)この言い継ぎ状は、村役人宛に出されているそうである。(高橋校注)
(6)連印 連判に同じ。1枚の紙に名前を列記し、押印すること。
(7)村方 村方三役の略。江戸時代の村役人で、名主(なぬし)(庄屋(しょうや))、組頭(くみがしら)(年寄(としより)、長百姓(おとなびゃくしょう))、百姓代(ひゃくしょうだい)をいう(ネット『コトバンク』)
(8)当初呼びかけの対象となった村は73か村であったが、「科書」によると参加者を出した村は加茂郡だけで239か村、他に額田郡が若干。(高橋校注)
人数を集める理由は、目標である酒屋、高利貸しなどへの圧力で、買い占め、物価騰貴の起こしている張本人である彼らに、人数で圧力をかけ、米価の値下げ、物価の値下げに応じさせるためと考えられます。
次に伝達手段ですが、辰蔵および次兵衛廻状が廻状を回したとあります。ということは、この二人は字の読み書きができたということ、また廻状の宛先が村方三役であることは、辰蔵、次兵衛が自分の村でそれなりの地位に居たことが窺われます。そうでなかったら、一揆の頭取に推挙されることはなかったとも言えます。
そして、一揆への参加は、個々人の意思だけでなく、村全体の意思として、村ぐるみで行われたことが窺えます。
また、文面を見ると、かなりの強制・恫喝が感じられます。『不承知であれば、家を残らず打ち壊す、遅れてくれば、庄屋の家を打ち壊す』。ことを起こせば、当然、藩役人に通報されたり、無視され参加しない村があることが予想され、一揆が失敗に終わる可能性があります。失敗すれば、当然処罰されます。そうなると、辰蔵ら頭取らにとっては、一揆を必ず成功させなければ自分の命に関わることになります。したがって、こうした恫喝や強制は不可欠であったと思います。
石亀坂 googleの地図に「石亀」という地名が残っていました。「豊田市史」では松平の柳助宅に集合する雰囲気になっていたところ、柳助が拒否したので、茅原村の地内にある石亀坂に移動したとありました。地図上の石亀というあたりではないかと探してみました。
石亀坂中腹の平たい土地
大田町、「茅原村」(現在は地名としてはありません)の方から松平に抜ける細い道がありました。登っていきますと、峠より少し松平寄りに平たい土地がありました。今資材置き場になっていました。もしかしたら、このあたりで集会が持たれていたのかも知れないと思いました。
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