先日、若越城の会より「クタラキ山城」に登りませんかという案内が来ました。
クタラキ山城は、織田信長の時代に、信長の家臣である金森長近が美濃から越前へ攻めてくるというので、越前の一向一揆衆が、それを迎え撃つために築いた城ということです。
また、水戸の天狗党が敦賀に入る際に「蠅帽子(はえぼし)峠」(クタラキ山城)を通ったという記録もあるそうです。
ということで、現地の城を研究している方2名と城の会3名さらに蠅帽子峠を目指す武生の山の会の方数名で登山をすることになりました。
案内をしていただける地元の研究者
登山は難航を極め、山には「やぶ」と称する低木が生い茂り、顔面に当たらないようにその枝を手で払いながら、足元は枯れ葉が積もっていたり、切り株が鋭利な切り口をのぞかせていたり、根っこがむき出していたりで、それに足を取られたり、滑らせたりしないように細心の注意を払いながらの登山でした。
川も渡りましたが、折からの梅雨時で水量が増していたらしく、長靴にはもう少しで水が入ってきそうでした。そこで、浅いところを見つけながら、なおかつ川底の石に足を滑らせないように、これも細心の注意を払いながら川を渡りました。
城には、曲輪が数か所と畝状竪堀が4条あるということでした。確かにそれらしき跡が残っていました。しかも、このクタラキ山城のある山を「夜引山」というそうで、「一向衆が夜にここを引いたから、この名前がついたのではないか」と地元の研究者の方が言っておられました。
もう一つの発見は、美濃から越前に抜ける蠅帽子峠を越える古道の跡があったことです。岐阜県側では整備が進んでいるそうですが、福井県側は手つかずになっています。なんとか整備をしてもらいたいと思いました。
沢登り、藪漕ぎをして上る一行
クタラキ山城より下流の古戦場跡 ここから金森軍に向かって石で攻撃したのではないかと地元の研究者の方が説明してくださいました。
奥深い大野の山に越前一向一揆の跡があり、敵と戦う一向衆の姿が目に浮かぶようでした。
大野の研究者の方、ありがとうございました。
クタラキ山城は、織田信長の時代に、信長の家臣である金森長近が美濃から越前へ攻めてくるというので、越前の一向一揆衆が、それを迎え撃つために築いた城ということです。
また、水戸の天狗党が敦賀に入る際に「蠅帽子(はえぼし)峠」(クタラキ山城)を通ったという記録もあるそうです。
ということで、現地の城を研究している方2名と城の会3名さらに蠅帽子峠を目指す武生の山の会の方数名で登山をすることになりました。
案内をしていただける地元の研究者
登山は難航を極め、山には「やぶ」と称する低木が生い茂り、顔面に当たらないようにその枝を手で払いながら、足元は枯れ葉が積もっていたり、切り株が鋭利な切り口をのぞかせていたり、根っこがむき出していたりで、それに足を取られたり、滑らせたりしないように細心の注意を払いながらの登山でした。
川も渡りましたが、折からの梅雨時で水量が増していたらしく、長靴にはもう少しで水が入ってきそうでした。そこで、浅いところを見つけながら、なおかつ川底の石に足を滑らせないように、これも細心の注意を払いながら川を渡りました。
城には、曲輪が数か所と畝状竪堀が4条あるということでした。確かにそれらしき跡が残っていました。しかも、このクタラキ山城のある山を「夜引山」というそうで、「一向衆が夜にここを引いたから、この名前がついたのではないか」と地元の研究者の方が言っておられました。
もう一つの発見は、美濃から越前に抜ける蠅帽子峠を越える古道の跡があったことです。岐阜県側では整備が進んでいるそうですが、福井県側は手つかずになっています。なんとか整備をしてもらいたいと思いました。
沢登り、藪漕ぎをして上る一行
クタラキ山城より下流の古戦場跡 ここから金森軍に向かって石で攻撃したのではないかと地元の研究者の方が説明してくださいました。
奥深い大野の山に越前一向一揆の跡があり、敵と戦う一向衆の姿が目に浮かぶようでした。
大野の研究者の方、ありがとうございました。
難渋を極めた由、道なき道なので、登城というよりアドベンチャーのようになりました。
今回の蠅帽子峠道は福井県の山の会の方々にとって、未踏査の峠道らしく、福井側からの峠道への踏査をぜひとも実現したいと思いました。
向後、機会があったらまた一緒に歩きましょう。
コメントありがとうございます。
城歩きマンさんのブログも拝見しましたが、美濃の方からの古道探索をぜひ実現したいと思いました。
機会があれば誘ってください。