信長公記(3)
信長は、わずかな軍勢で熱田神宮まで来ました。
丹下砦へ
海岸近くを通れば近いのだが、潮が満ちていて、馬で通ることができなかった。そこで熱田より北の方の道を難儀をしながら行軍し、まず丹下砦に行った。そこから善照寺砦、すなわち佐久間大学が守っている砦に行き、兵を集めた。敵軍の今川義元軍は4万5千の兵で桶狭間にて休憩をしていた。
天文21年5月19日午の刻(お昼頃)戌亥(北西)に向けて兵を揃え、鷲津、丸根の砦を攻め落としたので、機嫌をよくして謡を三番謡っていた。家康は、赤武者となって先駆けをさせられ、大高城に兵糧を入れ、さらに鷲津,丸根砦にて奮戦し、辛労なされたので、人馬の休息のため大高城にもどられた。
佐々隼人正、千秋四郎討死
信長が善照寺砦に来たのを見た佐々隼人正と千秋四郎は、300人ぐらいの兵で義元の軍に向かっていったが、千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、約50騎が討ち死にをしてしまった。これを聞いて、義元は、ますます機嫌をよくした。
<注解>
佐々隼人正 別名 佐々 政次。織田信秀に使えていた。小豆坂七本槍の一人である。
千秋四郎 別名 千秋季忠。熱田神宮の大宮司職。羽豆崎城城主。信長に仕えた。

丹下砦跡 光明寺というお寺の裏手の高台です。おそらく、どなたかの私有地で史跡を示す看板等はありませんでした。右側は墓地になっています。

丹下砦跡から南方を望んだ風景です。やはり一望の下に景色が広がっていました。おそらく当時は鳴海城も見えたことでしょう。
信長は、わずかな軍勢で熱田神宮まで来ました。
丹下砦へ
海岸近くを通れば近いのだが、潮が満ちていて、馬で通ることができなかった。そこで熱田より北の方の道を難儀をしながら行軍し、まず丹下砦に行った。そこから善照寺砦、すなわち佐久間大学が守っている砦に行き、兵を集めた。敵軍の今川義元軍は4万5千の兵で桶狭間にて休憩をしていた。
天文21年5月19日午の刻(お昼頃)戌亥(北西)に向けて兵を揃え、鷲津、丸根の砦を攻め落としたので、機嫌をよくして謡を三番謡っていた。家康は、赤武者となって先駆けをさせられ、大高城に兵糧を入れ、さらに鷲津,丸根砦にて奮戦し、辛労なされたので、人馬の休息のため大高城にもどられた。
佐々隼人正、千秋四郎討死
信長が善照寺砦に来たのを見た佐々隼人正と千秋四郎は、300人ぐらいの兵で義元の軍に向かっていったが、千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、約50騎が討ち死にをしてしまった。これを聞いて、義元は、ますます機嫌をよくした。
<注解>
佐々隼人正 別名 佐々 政次。織田信秀に使えていた。小豆坂七本槍の一人である。
千秋四郎 別名 千秋季忠。熱田神宮の大宮司職。羽豆崎城城主。信長に仕えた。

丹下砦跡 光明寺というお寺の裏手の高台です。おそらく、どなたかの私有地で史跡を示す看板等はありませんでした。右側は墓地になっています。

丹下砦跡から南方を望んだ風景です。やはり一望の下に景色が広がっていました。おそらく当時は鳴海城も見えたことでしょう。
この記録書は上杉謙信や、竹田信玄の話を扱ったものより、断然おもしろいのは、どうしてでしょうか?
やはり天下取りの疑似体験ができるからでしょうか。そこまで言わなくても、この記録書は、日本史上の重要な合戦の事実を裏付けできる、貴重な文書資料です。
何とか、生きた歴史教材にできないものでしょうか。歴史ドラマがたくさん作られているから、それでもういいや、と思ってしまうのは城歩きマンだけでしょうか・・・。
コメントありがとうございます。
どうして「信長公記」なのかといえば、おそらく信長の記録の中で、一番史実に近いと考えているからです。
愛知の史跡めぐりといっても、なにか指針になるものが必要でした。城歩きマンさんは、「太平記」に書かれていることについて、とても詳しくて、その記述と史実との関連を考古学的に考察されていました。それを私なりに取り入れさせていただき、「信長公記」と史跡を比べながら探訪しようとしています。
大河ドラマや歴史小説には、あまり関心がありません。というか、批判的に見る必要があると思っています。