信長公記(2)
信長公記が途中であったので、続きを記載します。
前の日の会議で、戦いについて全く議論もせず家来を清州の城から帰してしまった信長であったが、いよいよ翌日19日、鷲津、丸根の両砦が攻められていることを聞いた信長は戦闘を開始します。
案の定、夜明け方、佐久間大学・織田玄蕃のほうから、鷲津砦、丸根砦に兵が寄せてきているとの連絡が入った。これを聞いた信長は、敦盛の舞を舞い、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と謡われた。そして、ほら貝をふけ、鎧をとれと仰せられ、鎧をつけ、立ちながらご飯を食べ、兜をつけ、出陣なされた。
そのときのお伴は、小姓衆(信長の秘書的な役職で、いざというときは主君の盾となる役目を負った)の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎で、計6騎であった。6騎は熱田神宮まで行き、辰の剋(午前8時ごろ)に源大夫殿宮(上知我麻神社、現在は熱田神宮の中にある)前から東のほうを見れば、鷲津、丸根の砦が攻め落とされたらしく、煙が昇っていた。このとき、馬上6騎、雑兵200人ぐらいであった。
<注解>
佐久間大学 別名、佐久間盛重。織田信長の家臣。丸根砦を守っていたが、桶狭間の戦いの前哨戦で大高城の松平元康(徳川家康)に攻められて戦死する。
織田玄蕃 別名、織田秀敏。織田信長の大叔父にあたる。すなわち、信長の父、織田信秀の叔父である。官職が玄蕃允であったので、織田玄蕃と言われたと考えられる。信長の後見役のような立場であったらしい。桶狭間の前哨戦で、鷲津砦を守ったが、今川勢に攻められて戦死したといわれている。
現在の清州城です。
現在の熱田神宮本殿です。
信長公記が途中であったので、続きを記載します。
前の日の会議で、戦いについて全く議論もせず家来を清州の城から帰してしまった信長であったが、いよいよ翌日19日、鷲津、丸根の両砦が攻められていることを聞いた信長は戦闘を開始します。
案の定、夜明け方、佐久間大学・織田玄蕃のほうから、鷲津砦、丸根砦に兵が寄せてきているとの連絡が入った。これを聞いた信長は、敦盛の舞を舞い、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と謡われた。そして、ほら貝をふけ、鎧をとれと仰せられ、鎧をつけ、立ちながらご飯を食べ、兜をつけ、出陣なされた。
そのときのお伴は、小姓衆(信長の秘書的な役職で、いざというときは主君の盾となる役目を負った)の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎で、計6騎であった。6騎は熱田神宮まで行き、辰の剋(午前8時ごろ)に源大夫殿宮(上知我麻神社、現在は熱田神宮の中にある)前から東のほうを見れば、鷲津、丸根の砦が攻め落とされたらしく、煙が昇っていた。このとき、馬上6騎、雑兵200人ぐらいであった。
<注解>
佐久間大学 別名、佐久間盛重。織田信長の家臣。丸根砦を守っていたが、桶狭間の戦いの前哨戦で大高城の松平元康(徳川家康)に攻められて戦死する。
織田玄蕃 別名、織田秀敏。織田信長の大叔父にあたる。すなわち、信長の父、織田信秀の叔父である。官職が玄蕃允であったので、織田玄蕃と言われたと考えられる。信長の後見役のような立場であったらしい。桶狭間の前哨戦で、鷲津砦を守ったが、今川勢に攻められて戦死したといわれている。
現在の清州城です。
現在の熱田神宮本殿です。
昭和60年前後のことですから、27,8年も前になりますか…。
復元された清州城を一度見たいと思っていて、まだ見たことがないのです。機会があれば訪れてみたいですね。
清洲城へは今年の3月に行ってきました。勝幡城や岩倉城とあわせて見学しました。清洲城は清須市の町おこしの一環として、大変きれいに再建され、中にはいろいろな展示品がありました。また、武士やお姫様の着替えができたり、パフォーマンスをする若者もいたりで、すっかり観光名所でした。