寒くなりましたが、いい天気が続きます。今日は岡崎の岡城址を訪れました。
岡城とは
三河国二葉松
『三河国二葉松』では「「額田郡 岡村古城 池野大学 松平蔵人信孝 板倉弾正 永禄4年神君御出陣 河合勘ヶ由左衛門」と端的に紹介されています。
池野大学の築城
池野大学によって築かれたようです。(現地案内板)ただし、池野大学とはだれなのか、築城はいつのことなのか分かりません。
松平信孝が拠点に
松平蔵人信孝は、先日訪れた浄珠院にお墓がありましたが、徳川広忠の叔父にあたる人です。その信孝が天文7年(1548)の小豆坂の戦い(尾張織田信秀と今川勢の戦い)で、織田勢としてここを拠点にして今川勢と戦ったそうです。(『浅野文庫 諸国古城之図の世界』)
板倉弾正 神君御出陣
永禄4年(1561)には、中島の郷で松平主殿助(伊忠)に敗れた板垣弾正(今川家臣)が岡城にこもり、そこに家康が攻めて、板倉弾正は東三河に行ったそうです。(『三河物語』
河合勘ヶ由左衛門
そのあと、家康は岡城を河合勘ヶ由左衛門に守らせたそうです。
岡村御殿
なお、天正13年(1585)には家康は岡村城を岡村御殿と呼ばれる宿所に改修したそうです。したがって現在残っている遺構は宿所としての遺構と思われます。
三河額田 岡村(『浅野文庫 諸国古城之図の世界』)
岡城址は国道1号線の近くにありました。国道1号線は昔の東海道なので、ここに拠点を築いたり、宿所にするというのは頷けました。
岡城址案内板
看板のある所から少し奥に入っていきますと、「史跡 岡城址」の石碑がありました。
岡城址の石碑
立派な土塁
ここを通り過ぎると、左手に立派な土塁がありました。
土塁
この土塁が「古城之図」のどれになるのかずいぶん悩みましたが、
図の赤丸部分に相当するのではないかと、結論づけました。
堀跡
土塁の後ろには堀の跡もありました。
土塁南側の堀
岡城は平地にある城としては開発を免れて土塁や堀などが遺っていて、すごいと思いました。やはり「神君」(家康)の遺したものなので、なかなか手が付けられなかったのでしょうか。
岡城とは
三河国二葉松
『三河国二葉松』では「「額田郡 岡村古城 池野大学 松平蔵人信孝 板倉弾正 永禄4年神君御出陣 河合勘ヶ由左衛門」と端的に紹介されています。
池野大学の築城
池野大学によって築かれたようです。(現地案内板)ただし、池野大学とはだれなのか、築城はいつのことなのか分かりません。
松平信孝が拠点に
松平蔵人信孝は、先日訪れた浄珠院にお墓がありましたが、徳川広忠の叔父にあたる人です。その信孝が天文7年(1548)の小豆坂の戦い(尾張織田信秀と今川勢の戦い)で、織田勢としてここを拠点にして今川勢と戦ったそうです。(『浅野文庫 諸国古城之図の世界』)
板倉弾正 神君御出陣
永禄4年(1561)には、中島の郷で松平主殿助(伊忠)に敗れた板垣弾正(今川家臣)が岡城にこもり、そこに家康が攻めて、板倉弾正は東三河に行ったそうです。(『三河物語』
河合勘ヶ由左衛門
そのあと、家康は岡城を河合勘ヶ由左衛門に守らせたそうです。
岡村御殿
なお、天正13年(1585)には家康は岡村城を岡村御殿と呼ばれる宿所に改修したそうです。したがって現在残っている遺構は宿所としての遺構と思われます。
三河額田 岡村(『浅野文庫 諸国古城之図の世界』)
岡城址は国道1号線の近くにありました。国道1号線は昔の東海道なので、ここに拠点を築いたり、宿所にするというのは頷けました。
岡城址案内板
看板のある所から少し奥に入っていきますと、「史跡 岡城址」の石碑がありました。
岡城址の石碑
立派な土塁
ここを通り過ぎると、左手に立派な土塁がありました。
土塁
この土塁が「古城之図」のどれになるのかずいぶん悩みましたが、
図の赤丸部分に相当するのではないかと、結論づけました。
堀跡
土塁の後ろには堀の跡もありました。
土塁南側の堀
岡城は平地にある城としては開発を免れて土塁や堀などが遺っていて、すごいと思いました。やはり「神君」(家康)の遺したものなので、なかなか手が付けられなかったのでしょうか。
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