「松平記」は次に、土呂本宗寺に立て篭もっていた武将の名前を挙げています。赤色の武将は、桶狭間の戦いのとき家康について丸根城を攻めていた武将です。家康の家臣団が分かれて戦ったことが分かります。
一 また土呂本宗寺の寺内に立てこもる人々は、大橋伝十郎、石川半蔵、佐橋甚兵衛(吉忠)、同甚五郎(吉実)、大見藤六、石川善五佐衛門、同源左衛門(一勝)、佐藤乱之助(吉久)、大橋左馬助、江原孫三郎(利金)、本多甚七、石川十郎左衛門(知綱)、同新九郎(正綱)、同新七(親綱)、同太郎八郎、同右衛門八、同又十郎、佐野与八(正吉)、江原又助、内藤弥十、山本才蔵、松平半助、小野弥平、村井源四郎、山本小次郎、活計五助(月海左五助)、黒柳次郎兵衛、成瀬新蔵、岩城半七、三浦平三郎、浅美主水、阿佐美金七郎、加藤五郎右衛門、平井甚五郎、黒柳彦助<1>、これらをはじめ70余騎立てこもり、家康に敵対していた。
注
<1> 土呂本宗寺に立てこもっていた人々。エピソードが見つかった人だけコメントをする。
○佐橋甚五郎 森鴎外に「佐橋甚五郎」という名の小説がある。そこでは、佐橋甚五郎は松平信康の小姓として登場し、同じ小姓の蜂谷を約束を守らぬとして殺害、また家康の命で甘利四郎三郎を刺殺し行方をくらました。そして慶長12年朝鮮使節として現れている。
○大見藤六 「東照宮御実紀付録」に記事が載せられている。永禄6年正月大見藤六は、徳川方にあり翌日の戦いの作戦を聞いていた。そしてそのまま一揆方に寝返った。家康は、臣下に藤六を討て、これは大きな忠義だと檄を飛ばした。戦いの当日水野太郎作正重が大見藤六を討ち、家康に大変誉められたという逸話が記されている。
○石川善五左衛門 桶狭間の戦いのとき、丸根城を攻めた家康の遊兵(奇襲攻撃軍)として参戦している。
○江原孫三郎 江原利全。家康が人質として今川に行ったときに近侍の家臣として同行したらしい。
○石川新七 上記大見藤六で載せた「東照宮御実紀付録」に藤六とともに家康方を攻めた武将として記録されている。新七は水野忠重に討たれている。
一 また土呂本宗寺の寺内に立てこもる人々は、大橋伝十郎、石川半蔵、佐橋甚兵衛(吉忠)、同甚五郎(吉実)、大見藤六、石川善五佐衛門、同源左衛門(一勝)、佐藤乱之助(吉久)、大橋左馬助、江原孫三郎(利金)、本多甚七、石川十郎左衛門(知綱)、同新九郎(正綱)、同新七(親綱)、同太郎八郎、同右衛門八、同又十郎、佐野与八(正吉)、江原又助、内藤弥十、山本才蔵、松平半助、小野弥平、村井源四郎、山本小次郎、活計五助(月海左五助)、黒柳次郎兵衛、成瀬新蔵、岩城半七、三浦平三郎、浅美主水、阿佐美金七郎、加藤五郎右衛門、平井甚五郎、黒柳彦助<1>、これらをはじめ70余騎立てこもり、家康に敵対していた。
注
<1> 土呂本宗寺に立てこもっていた人々。エピソードが見つかった人だけコメントをする。
○佐橋甚五郎 森鴎外に「佐橋甚五郎」という名の小説がある。そこでは、佐橋甚五郎は松平信康の小姓として登場し、同じ小姓の蜂谷を約束を守らぬとして殺害、また家康の命で甘利四郎三郎を刺殺し行方をくらました。そして慶長12年朝鮮使節として現れている。
○大見藤六 「東照宮御実紀付録」に記事が載せられている。永禄6年正月大見藤六は、徳川方にあり翌日の戦いの作戦を聞いていた。そしてそのまま一揆方に寝返った。家康は、臣下に藤六を討て、これは大きな忠義だと檄を飛ばした。戦いの当日水野太郎作正重が大見藤六を討ち、家康に大変誉められたという逸話が記されている。
○石川善五左衛門 桶狭間の戦いのとき、丸根城を攻めた家康の遊兵(奇襲攻撃軍)として参戦している。
○江原孫三郎 江原利全。家康が人質として今川に行ったときに近侍の家臣として同行したらしい。
○石川新七 上記大見藤六で載せた「東照宮御実紀付録」に藤六とともに家康方を攻めた武将として記録されている。新七は水野忠重に討たれている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます