愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

星崎城(2) 名古屋市南区

2022年03月09日 18時35分43秒 | 名古屋市南区
先日、「鳴海の豪族だった花井右衛門兵衛がここを居城にした。山口教継(左馬助」の謀反により、花井右衛門兵衛の領地が織田信長に没収され、岡田直教が城主になった。」というウィキペディアの記事を取り上げました。星崎城に行ってみました。

星崎城は、現在小学校になっています。笠寺小学校です。

笠寺小学校正面玄関
門に入るのに、坂になっています。高台に立っています。

この門に向かって右手の方にもう一つ門があり、「星崎城」の看板が設置してありました。門は開いており、入って看板を確認することができました。不用心ですが、私は助かりました。


笠寺小学校東側の門
こちらの門は、けっこう高いところにあり、城が高台にあったことがすぐ分かります。


星崎城の石碑と案内板

案内板の文章
星崎城跡
 標高10メートルの台地先端に築かれた中世城郭である。築城年は不明であるが、戦国末には、織田氏に仕えた岡田重吉、重孝が城主となった。江戸時代の地誌や絵図から、本丸、二の丸、侍屋敷、大手門などを備えた本格的な戦国城館であったことがうかがえる。
 天正16年(1588)廃城となったが、名古屋台地南部の重要な拠点城郭であった。
名古屋市教育委員会


ということで、現地案内板でも花井右衛門兵衛については記載がありませんでした。

近くの秋葉社に石碑があるというので行ってみました。

秋葉社の星崎城址石碑

この神社に地区の役員の方が掃除に見えて、「昔ある人が石碑をたくさん作り、いろんなところに置いたそうだよ」と教えてくれました。その方は言い伝えだけどね、と自分が調べたわけではないとおっしゃっていました。ぜひ自分で調べたいと思いました。

この秋葉社もけっこう高台にあり、秋葉社と笠寺小学校が同じくらいの高さになっていて、間がかなり低くなっていました。堀跡かなと思いました。

秋葉社から笠寺小学校運動場バックネットを見る

桶狭間の戦いの砦を地理院地図陰影起伏図に落とすと図のようになります。

桶狭間の戦い砦の位置(赤は今川方、青は織田方砦)

星崎城は、笠寺台地の南端にあり、鳴海城、大高城が一望に見えます。
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松平記(17) 松平記

2022年03月06日 16時58分34秒 | 松平記

松平記p17

翻刻
け出る、弟筧平十郎参り、兄とつれて早々岡崎へにけ来る
上和田衆追いかけけれとも、不叶筧ハ大高名致し無難罷帰
申候間、廣忠御感のあまり筧平三郎に御感状被下候、知行
羽栗にて百貫給る
横文 今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫
   孫忘間鋪候、然者為給恩万疋之知置候、雖為何儀於
   末代不可有相違候、在所別日記出置候也
   天文十六年
    十月廿日  広忠
       筧平三郎とのへ

現代語
(に)げて出た。弟の平十郎も来て、兄と一緒に早々と岡崎に逃げてきた。上和田の(松平三左衛門忠倫の)家来どもが追いかけてきたが、捕まえることはできず、筧は大きな高名を得て、難なく帰ってきたので、廣忠は、たいそう感激し、筧平三郎に感状を出され、羽栗に知行地百貫を与えた。
横文 このたび三左衛門忠倫を殺害したこと、廣忠への大変な忠節である。この忠節子孫まで忘れることはない。であるので、その恩、万疋の知行を置き、「雖為何儀」末代まで相違があってはならない。在所については別日に記して置くこととする。
天文16年
10月20日 廣忠
   筧平三郎殿へ

コメント
筧平三郎は筧重忠、弟の筧平十郎は筧正重です。「寛政重修諸家譜」で弟の正重にはこの松平三左衛門暗殺事件は書かれていませんが、兄の重忠の項には詳しく書かれていました。また、この「寛政重修諸家譜」には、「万疋之知」について「三河国野羽にをいて、萬疋の地を宛行はる」と記述されていました。
ここで、疑問が湧きました。「羽栗」には百貫の知行が与えられています。その他に「野羽」に「萬疋の地」は与えられたのか、それとも、この「羽栗」と「野羽」は同じところなのか。素直に読めば違うところのようですが、そうすると、筧平三郎重忠は、ものすごい恩賞を得たことになります。逆に言えば、廣忠が松三左衛門忠倫をかなり脅威に感じていたことが分かります。
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