『自分探し』・・・こんなキー・ワードが、トレンドになっていたのは、いつ頃のことだろうか?
21世紀をマジかに控えた世紀末・・・の頃からだろうか?
メーテルリンクの童話に、『青い鳥』というお話があって、主人公のチルチルとミチルの兄妹は、幸せの象徴ともいえる青い鳥を探す旅にでるけれど、どうしても見つけることができない。
疲れ果てて、自分の部屋に戻ったら、青い鳥は、ソコに居た。
遠くまで出かけたのに、青い鳥は、ソコにいた。
自分探しの旅に出て、自分は、自分の中にしかいないということを知る物語なのかもしれない。
別の自分が、他に居る・・・というのは、ドッペルゲンガーというか。
ドッペルゲンガーもお互い?に出会ってしまうと、死に至るという。
芥川龍之介なども、死ぬ前に、自分自身(ドッペルゲンガー)に、会っているらしい。
本当の自分・・・。
たぶん、社会や会社組織、家族などの集団の中で、自由奔放、自分のやりたい放題できる環境がともなわない場合、抑圧されても、聞き分けのよい人間でいる方が、集団では、優位に作用する・・・ということを初等教育で学び、本来の自分を抑えて、所謂、ペルソナ(仮面)を被り、生きていくことになる。
ペルソナは、自分を守ってくれる反面、抑圧もするから、仮面なんだか、自分なんだか・・・わからなくなってきて・・・自分を探したくなるのだろうか?
幸福・希望の象徴である『青い鳥』を探すのは、生きていく上で、必要不可欠なんだろうと思う。
どんな環境の中にいても、希望を失ったら、生きていくのも難しくなる。
不治の病などでも、治療に有効な新薬の開発などの希望があれば、生存へのエネルギーが出てくるということもあるだろう。
死に至る病とは絶望である・・・と言ったのは、キェルケゴール(『退屈』も死に至る病らしい)。
絶望的な退屈・・・って、かなり死に至りそうな病のようだ(まるで、今のワタシかも?)
自分自身に出会うと死に至るドッペルゲンガー。
自分探しの果てに出会うのは、絶望的な退屈。
青い鳥の物語の終末は、旅から戻ってみたら、自分の目の前にいた青い鳥を見つけて、幸福を手に入れたような気がしたけれど、掴まえる間もなく、青い鳥は、再び、目の前から飛び去ってしまうそう・・・(この結末は、今まで知らなかった)
結局のところ、本当の自分は、今の自分であり、ニセモノのように感じているだけで、掴まえたと思ったら、儚く消えていくのが・・・或いは、本当の自分だと思っていた自分かもしれない???
(頭の程度が悪いので、書いていてよくわからなくなってしまいました)