友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

あいち国際映画祭

2007年09月05日 23時55分08秒 | Weblog
 『あいち国際映画祭』の本日、午後2時からの入場券をいただいた。映画祭の期間中ならどれを見てもよいのかなと思っていたが、入場券をよく見たら、本日午後2時より上映の『終わりよければすべてよし』と指定されていた。監督は羽田澄子さんだ。羽田さんは福祉について関心が強い。私は秋田県鷹巣町の福祉政策をめぐる映画、『住民が選択した町の福祉』が見たかった。

 今日の『終わりよければすべてよし』と言う題名を見たときはイヤだなと思った。私たちはよく、「終わりよければすべてよし」と口にする。最後にうまく行った時、父が「終わりよければすべてよし」と言ってほめてくれた時があった。そう、私はほめられたと思った。たぶん、父は私を励ます意味でほめたのだと思う。
大人になって、「終わりよければすべてし」というのは間違っていないか、そう思うようになった。最後に辻褄を合わせることで、そこに至る過程をないがしろにすることにならないか。たとえば、年金のことでも、着服してしまったが、後で返しておけばそれでいいのではないか。失敗はあったが、尻拭いをしたから、失敗はなかったことにしてもよいのではないか。「終わりよければすべてよし」という考え方には、「あいまい」であることをよしとしてきた意識と似ている。

 「この映画は終末期のケアや死の問題を扱っています」と、羽田さんは挨拶した。羽田さん自身が81歳になるそうだが、とてもそんな高齢者には見えない。自身の妹さんをガンで亡くした時、生きられる時間は残り少ないというのに、苦しむ妹の痛みをやわらげられないのかと医師に頼んだら、「モルヒネは身体に悪いから」と言われたことや、命のともし火が消えそうになった時、医師は家族を病室の外に押し出し、患者に馬乗りになって心臓を圧迫していたこと、医療は1分でも長く生きながらえさせることが目的なのかと、不信感を抱いたそうだ。

 映画は「終末期はどうあるべきなのか」を追って、緩和ケアに取り組んでいる医療施設や福祉施設を、あるいはオーストラリアやスウェーデンの取り組みなどを紹介していく。2時間に及びちょっと長すぎた感じがした。誰でも惨めな終末を迎えたいとは望まないだろう。けれでも、映画の中にも出てきたが、家族の中にはあるいは患者自身も、せめて3年、それがダメなら1年でも半年でもいいから長生きして欲しい、生きていたい、と願う人がいることも事実だ。

 老人ホームや新しい形のケア施設が映し出されていたが、私には地獄のようにしか見えなかった。やはり「老い」は美しくない。美しくないが、それは事実である。目をそらすことのできない現実である。私自身の姿でもある。在宅ケアがいいとか、施設でとか、どうでもよいことのように思う。どのような終末を望むにしても、誰もが平等に迎えられなくてはならない。終末期もお金で左右されるような社会であってはならない。

 終末期の医療のあり方もこれからはもっと人間としての尊厳に基づく医療に変っていくだろう。またそうしなくてはならない。そんなことを考えながら、長い地下鉄のエスカレーターを見ていたら、人は左に1列に並び、右側は急ぐ人のために空けてある。いつからこんな風になったのだろう。右側の人が急がずに、二人同時にそのまま行くならばきっとその方が早く移動できると思う。電車の中は相変わらず優先席が設けられ、そこには老人でも妊婦でもけが人でもない人が座っている。もっとすごいなと思うのは女性専用車両だ。みんな、おかしくないか。老人や妊婦やけが人に席を譲るのは当たり前のことだ。女性専用車両を設けなくてならないほど、痴漢が多いことに男は恥らないのか。

 人間は本当に変っていくのかと不安に思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする