友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

友人からの電話

2007年09月20日 23時58分39秒 | Weblog
 古い友人から、「今度の土曜日にヒマないか」と電話があった。毎日が日曜日になってしまってから、「じゃーちょっと会わないか」と誘ってくれる友人が増えた。お茶だけの人もいるし、お酒を飲もうという人もいる。誘われたら、よほどのことがない限り、出かけることにしている。どんな用事であるとしても、人が私を必要としているのに断るのは私の信条に反する。あれやこれやと話し合うことで、人が満たされるならば、こんな幸せなことはない。

 友人が言うには、彼の昔から付き合ってきたスナックのママから「盆明けから、少し、店の形式を変えたから、一度顔を出してほしい」とメールが入ったから付き合えというのだ。午後4時から8時まで、食事付きで飲み放題3,500円だという。飲み放題で嬉しがるほど私は飲めないが、わざわざ彼が電話してきたことに何かあるなとカンが働いた。彼とママの間柄について私は知る由も無いが、彼自身は「未だに、相手のことが気になり、付き合っている。私より、7つ年下である。何故かと問われても、はっきりとその理由を説明できないが、生き方に対して、互いに同じ価値観を持ち、互いに尊敬し合っていて、今相手がどんなことを思い、どんな生活をしているのか、気になって仕方がないのだ」と語っている。

 また、彼は「彼女は、私が仕事に対して死に物狂いで取り組む姿勢が好きだとは言ってくれた」こと、そして彼が「私は、彼女の何に対してもブレない生き方が好きで、サラリーマン時代から、彼女のアドバイスや意見だけは素直に聞いた。気が付いてみるともう25年以上も付き合っている。二人で、あちこちによく飲みに行ったし、食事にも行ったが、一度も浮ついた気持になったことはなかった」と告白する。そこが私には理解できない。確かに彼は、恋愛に関しては誠にプラトニックで、好きだ好きだとべたべたほのめかすわりに、決して肉体に触れようとはしなかった。

 私に言わせれば、それが欺瞞的だと思うのだけれど、彼は決してそうではないのだ。つまり彼には、オスとしての性は、恋愛においては存在しない。愛するという行為は、愛されないという結果にもなる。傷つかないためには、プラトニックでいることが一番だと無意識のうちに考えてきたのではないか。自分の愛が深ければ深いほど、相手から嫌われたりしたなら、深い傷を負うことになる。それが男と女の愛する行為なのだから、素直に受け取ればいい。しかし、彼は「愛されない」ことをいつも最も恐れているのだと思う。

 それは私も同じだ。誰しも「愛されない」を真正面から受け入れることは無い。人は皆、愛されたい存在なのだ。彼は「営業という立場にいた私と彼女は、“同病相哀れむ”というと言葉は悪いが、客を接待するというシチュエーションでは、同業者と同じなのだ。私がRetireし、肩書きがなくなっても、同じように気を遣ってくれるし、私は私で、35年間も、誰にも頼らず、毅然として店を守ってきた彼女を今も尊敬している。そんな彼女との付き合いを、友だちから言わせれば、ミニ恋愛というかも知れないが、私は自信を持って、男と女の友情だと思っている」と話す。なるほど、彼の言葉に間違いは無いだろう。

 それでも私は、それで彼女は満足なのだろうかと考えてしまう。いや、仮に彼女が「私はそれで満足しています」と言ったとしても、私にはムリをしているような気がしてならない。もちろん、彼には妻子があり、これ以上深入りしたなら「不幸になる」ことは目に見えている。「一度も浮ついた気持ちになったことはない」という彼を、私はエライなと思う反面で本当にそうなら悲しいヤツだなとも思っている。しかし「決して不幸な事態を招かない」と決心している彼の方が本当は人間として立派なのだろう。
 自分はまだまだ未熟者だと告白しなくてはならない。
コメント
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