友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

中学のクラス会が近づいた

2007年09月25日 22時59分07秒 | Weblog
 9月30日に中学の時のクラス会を開く。担任の先生が亡くなってから、ちょっと出席が少ないかなと思う。中学3年生の時、担任は30歳で「月給が1万円を超えたので結婚することにした」とみんなの前で話したことをよく覚えている。それから、新婚旅行で九州へ出かけ、満開の霧島ツツジをバックに二人の旅行の写真などが後の掲示板に貼られていた。確か、1枚10円で売られていたような気がする。今ならば、新聞沙汰になるような出来事だ。

 短気でいつも竹の棒を持っていて、生徒を叩いたりしていた。あるいは、授業中に私語やコソコソしていようものなら、チョークが飛んできた。私は叩かれたこともなければ、怒られたこともなかったので、怖い先生とは思ったことはなかったが、1年生の時に受け持ってもらった同級生は「恐怖の毎日だった」と告白する。私とこの担任との出会いは3年生になってからだが、2年生の時に事件があった。

 この先生のクラスの女の子で、名古屋に引っ越していく子がいて、私に渡すものがあるから駅まで来てくれと伝言があった。私は小学校でも同じクラスになった女の子だから、なんとなくわかってはいたが、友だちも連れて出かけた。女の子から、縦笛をもらいそうになった時、たまたま同じ学校の先生が通りかかり「何をやっているのだ」と言って、職員室へ連れ戻された。その時、この先生は私に縦笛を渡そうとした女の子ばかりか、この先生のクラスの子で私が好きだった女の子まで、職員室に呼びつけると言い張っていたことを覚えている。

 なぜ、私が好きだったというだけで、その女の子まで呼びつけられなくてはならないのか、私には理解できなかった。私が何もしゃべらないでいると、職員室のどこかから「こういう子が将来怖いんだよね」と言う声が聞こえてきた。成績がよいのに反抗的な子は、将来何をするかわからないぞという意味で言っていることはよく理解できた。その場は、私の方の担任が納めてくれたが、まさか3年生になって、その先生が担任になるとは思いもしなかった。ところが担任となって1年間を過ごしたおかげで、自分が先生になった時は、この先生と同じことを私は行っていた。

 クラスの子どもたちが訪ねてきてくれれば、ご馳走をした。教室外で、あるいは卒業してからも、私の担任がしていたように、子どもたちとの付き合いが続いた。私が大学に入った年、高校の新聞部の仲間で合宿を計画した。新聞部の仲間だけでなく、今も付き合いのある中学校の同級生、つまり3年生の時の友人も呼び、私が最も信頼していたこの担任も呼んだ。先生は泊まりこそしなかったが、わざわざ来てくれた。どうして呼ばれ、何をしてよいのかわからなかっただろうけれど、とにかく参加してくれた。

 この先生のおかげで、中学3年生のクラスは仲の良いクラスだった。中学校を卒業した4月に、もうクラス会を開いていたし、本当に何度もクラス会を開いてきたと思う。みんな仲が良かった。もちろん、50数人もいたクラスだから、それぞれに人生はある。私が小学校1年の時に同じクラスだった男の子は、私よりも読み書きができた。私は彼を尊敬していた。中学3年生で同じクラスになったが、おとなしい普通の子だった。けれども、卒業とともに行方がわからなくなった。ヤクザの世界でやっているとウワサを聞いたことがあるが、とてもヤクザにはなれない優しい子だった。

 クラスで一番成績のよい子は女の子で、やせていて手足が長く、切れ長の目をしていた。東京の大学にいっていた彼女が帰った時、一度夜遅くまで話したことがあったが、何を話したのかは覚えていない。彼女はいわば、われら男子生徒のマドンナで、私には手の届かない存在だった。私が一番よい成績の時でも、彼女は私の上にいた。ところが先日、同級だった友人が「オレは彼女よりも成績がよかったことがある」と言う。これはショックだった。

 今晩、今まで全く音信不通だった友人から電話があった。「クラス会にいけなくなった」と言う。急な用件なら仕方ない。「これからは減る一方なのだから、できることなら出席してくれ」とお願いする。「なに!少ないのか!」と言うから、「いや、亡くなることはあっても、増えることはないからさ」と答える。どうやら都合をつけて出席してくれることになった。これからは、余り間をおかずにやるほうがいいなと幹事として思う次第だ。
コメント
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