友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

二人で食事

2007年09月02日 22時19分18秒 | Weblog
 昨夜は孫娘と二人だけの晩ご飯となった。夕方、「今日は1時間で帰ってくるから」と言ってプールへ出かけて行った。冷蔵庫を見て、晩ご飯の用意をする。孫娘は午前中もプールで合同練習に参加してきたばかりなのに、まだプールへ行くというのだから、よほど水泳が好きなのだろう。「塾はおもしろくないけれど、プールは楽しい」と言う。「それは当たり前だろう。塾でもプールのような友だちができれば、楽しくなるのと違う?」と言うと、「プールでも泳いでいる時は、一人だからいっしょだよ」と答える。

 なるほど彼女にとっては塾もプールも「つらい」ことには変わりない。それでもプールが好きなのはやはり水泳そのものが好きなのだろう。「プールも塾も怠けたらすぐに結果が表れる」と言う。「まあ、日ごろの努力がいかに大切かということよ」と大人のようなことを言う。私が中学生の時に、孫娘くらいに悟っていたらもう少しましな人間になっていたかもしれないと、孫娘から教えられる。

 玉ネギとニンジンとキノコとあく抜きしたゴボウに豚肉を加え、さらに後からジャガイモも入れて野菜たっぷりの煮物を作る。オクラと青梗菜を茹で、トマトときゅうりも並べてサラダにした。ジャコにキムチをのせてもう一品作る。孫娘の良いところは、こうした料理を見るなり「うまそう!」と言ってくれるところだ。さらに一口食べると「うまい!」と言う。女の子なんだから「おいしい」と言った方が良いのだが、「おいしい」というよりは「うまい」の方が真実味があるから不思議だ。

 私はビールを飲み、二人でおしゃべりしながら食べる。自分の娘たちの時にはなかった、ゆったりとした時間だ。娘たちの時は、ついつい行儀を注意したり、小言を言ってしまっていたように思う。歳をとることのよさは、体験が豊富になることだ。そして自ずと結果を知ることができる。勉強もそうだが、たとえどんなに良い成績を得たとしても、人の悪口を言ったり、人を陥れたり、人を騙したり、そういうことが人としてすべきことではないことがわかることが大事なことだ。娘たちにくどくどと私が言い聞かせてきた「人には優しく、自分には厳しく」を実践してくれればよいと思う。

 孫娘は、自分の好きなテレビを見ている。私はそれを許している。娘たちの子どもの時は、テレビは働いてきた大人が癒す娯楽のために見るもの、あなたたちは何のストレスもないのだから見る必要がないと切り捨ててきた。子どもたちからすれば、自分の価値観ばかり押し付ける父親でしかなかった。孫娘が見ているテレビは、娘たちが見ていたのと同じ他愛もないドラマだ。そんな時間があってもよいのではないか、そう思える余裕がある。

 ストイックに生きても、そうでなくても、人生はそれほど変わるものではない。自分が何を大切に思って生きるのか、そのことの方が大事なように思う。大人はもちろん子どものために、子どもたちの可能性を最大限伸ばす環境を作ってやる必要があるし、親はそのために努力している。孫娘が、祖父母のことをどのように感じているか、それは彼女のことであって、祖父母である私たちが彼女のために何をするか、何ができたか、それが私たちの課題なのだ。

 とはいえ、私は自然体で接している。特別に何かを意識するわけではなく、あなたの祖父である私が何を求めていたのか、くどいほど伝えていきたい。それは先人の果たす役割だろう。今夜、彼女は明日から始まる課題テストに向けて猛烈に勉強している。先生役のカミさんがうっとりうっとりしていると、「ママちゃん」と怒鳴っている。「どう、勉強できた?」と聞くと、「ウン、なんか自信満々!」と言う。こういう時は意外に要注意なのだけれど、そのことは彼女もわかっているようだから、まあいいかと思う。とりあえずは明日のテストの健闘を祈っておこう。
コメント
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