昨夜は名演の日で、劇団民芸による『明石原人』を観た。劇団民芸では珍しい(?)象徴的な舞台づくりにはちょっとビックリした。しかし、観終わってみると、舞台の転換を実にうまくやっていたと思った。戦前から戦後の40年間ほどを淡々と描きながら、2時間50分があっという間だったから、やはり演出がうまかったのかなと思う。劇団民芸は伝統的なリアリスム演劇だから、小細工はせずにストレートに見せてくれる。古いといえばそうだが、それだけにわかりやすいともいえる。
実際の歴史上の人物名が出てくるから、実際にあった話なのかもしれないが、私はそんなことがあったことを知らなかった。明石でナウマウ象の化石が見つかった話は知っていても、人骨の化石が出たとは知らなかった。その人骨の化石を発見したのは、小学校しか出ていない素人考古学者だ。彼はひょんなことから、自分の小学校の時の先生で、今は明石の女学校の教師の女性と結婚する。11歳も年上であるばかりか自分の先生であったので、結婚しても彼の書く論文は彼女のチェックが入る。おそらくそれで彼も大いに助かったのであろうけれど、度々となればうっとうしくもなる。激しい夫婦喧嘩が描かれていたが、納得出来ることである。
私の母も年下の父と結婚した。母も女学校の教師をしていた。父は母のおかげで最終的には師範学校を卒業し、小学校の教師になった。父の夢は小説家になることで、小説家になるためには医師になり、お金と時間を稼ごうとしていたようだ。母はそうした父を支えていたという。これは姉から聞いた話なので、本当かどうかは定かではない。父が世間知らずの夢想家というのは、多分本当だろう。父の残した日記を読むと、人の世のわずらわしさを嘆くが、どうするかは見えてこない。悪いヤツや卑怯なヤツがいると分析しているのに、ころりと騙されてしまっている。
生活のことや親類づきあいのことなど、うっとうしいことは全て母に押し付け、自分は同じ職場の若い女性教師に多大な関心を寄せている。『明石原人』の主人公夫婦に似ているが、明石の年下の主人はひたすら化石掘りに夢中している。それだけに罪はないし、最後には大学の先生にもなり、博士号を取得している。妻としてはどんなにか誇りに思っただろう。自分の身体がボロボロになるまで働き、夫を支えてきたことが報われたのだ。母はどうだっただろうか。父は校長にもなり、自分のためにのみに金を使うことはなかったと思う。その父に比べると、私は全くカミさんに依存している。自分勝手に生きてきて、カミさんからも「あなたはいいわね。自分の好きなことができて」とまで言われている。
明石の主人公は「自分は世間に何も役立たないことをしてきた」と言う。考古学での発見は、化学や物理や医学の発見と違って、社会に役立つわけではないというわけだ。彼の妻は「社会に役立つことだけが人の価値ではない」と諭す。「好きだというだけでやってきてしまった」と彼が告白すると、妻は「好きでやることに意味があるのよ」と言う。そうだよね。好きなことに没頭できる人生なんてそうあるものじゃーない。歴史では好きなことをしてきた人がいたことで大きな進展があった。たいていの人は生きるために生きる人生で終わる。そういう人は社会の役に立たなくても、家族やその周りの人の役には立っているものだ。いや、生きていて価値のない人生なんかあるはずがない。神は価値のないものを生かされているはずはないのだ。
ところで、主人公が「私は自分の功名心のためにやってきた」と言ったことが気になった。功名心のない人はいないだろう。誰もが人に認めてもらいたいと願っている。できることなら、人から褒めてもらいたいのだ。そのために努力をすることは当然であろうし、「名を上げたい」と願うことは「力」にもなる。功名心は密かに自分の胸の中に収めておくべきで、功名心が過ぎて、人を陥れたり、偽造をしたり、そうした負の面があることも事実だろうが、それはその人の心の問題のように思う。
それよりも気になったのは、関東で旧石器を発見した、同じ素人考古学者の若者を主人公が諭す場面だ。若い素人考古学者も「先生は変ってしまわれた」と言い返していたが、あれだけ学歴にそして学閥に苦しめられてきた主人公も、大学の先生という地位を得てしまうと、苦しんできたことでさえ忘れてしまうのかと思った。権力を手にした者が腐敗していくのと同じだ。人はそういう運命なのだろうかとさえ思った。
71歳で総理大臣のイスに座ることになった人もいれば、63歳にして3度結婚し3度離婚し、「波乱万丈の人生でね。にっちもさっちもいかなくなってしまった」と開き直る人もいる。その同じクラスメートに「上品な生き方、納得できなくても気品有る生き方をしたい」と言う人もいる。30日のクラス会では、そんな自分たちの生き方論に花が咲くのかな?
実際の歴史上の人物名が出てくるから、実際にあった話なのかもしれないが、私はそんなことがあったことを知らなかった。明石でナウマウ象の化石が見つかった話は知っていても、人骨の化石が出たとは知らなかった。その人骨の化石を発見したのは、小学校しか出ていない素人考古学者だ。彼はひょんなことから、自分の小学校の時の先生で、今は明石の女学校の教師の女性と結婚する。11歳も年上であるばかりか自分の先生であったので、結婚しても彼の書く論文は彼女のチェックが入る。おそらくそれで彼も大いに助かったのであろうけれど、度々となればうっとうしくもなる。激しい夫婦喧嘩が描かれていたが、納得出来ることである。
私の母も年下の父と結婚した。母も女学校の教師をしていた。父は母のおかげで最終的には師範学校を卒業し、小学校の教師になった。父の夢は小説家になることで、小説家になるためには医師になり、お金と時間を稼ごうとしていたようだ。母はそうした父を支えていたという。これは姉から聞いた話なので、本当かどうかは定かではない。父が世間知らずの夢想家というのは、多分本当だろう。父の残した日記を読むと、人の世のわずらわしさを嘆くが、どうするかは見えてこない。悪いヤツや卑怯なヤツがいると分析しているのに、ころりと騙されてしまっている。
生活のことや親類づきあいのことなど、うっとうしいことは全て母に押し付け、自分は同じ職場の若い女性教師に多大な関心を寄せている。『明石原人』の主人公夫婦に似ているが、明石の年下の主人はひたすら化石掘りに夢中している。それだけに罪はないし、最後には大学の先生にもなり、博士号を取得している。妻としてはどんなにか誇りに思っただろう。自分の身体がボロボロになるまで働き、夫を支えてきたことが報われたのだ。母はどうだっただろうか。父は校長にもなり、自分のためにのみに金を使うことはなかったと思う。その父に比べると、私は全くカミさんに依存している。自分勝手に生きてきて、カミさんからも「あなたはいいわね。自分の好きなことができて」とまで言われている。
明石の主人公は「自分は世間に何も役立たないことをしてきた」と言う。考古学での発見は、化学や物理や医学の発見と違って、社会に役立つわけではないというわけだ。彼の妻は「社会に役立つことだけが人の価値ではない」と諭す。「好きだというだけでやってきてしまった」と彼が告白すると、妻は「好きでやることに意味があるのよ」と言う。そうだよね。好きなことに没頭できる人生なんてそうあるものじゃーない。歴史では好きなことをしてきた人がいたことで大きな進展があった。たいていの人は生きるために生きる人生で終わる。そういう人は社会の役に立たなくても、家族やその周りの人の役には立っているものだ。いや、生きていて価値のない人生なんかあるはずがない。神は価値のないものを生かされているはずはないのだ。
ところで、主人公が「私は自分の功名心のためにやってきた」と言ったことが気になった。功名心のない人はいないだろう。誰もが人に認めてもらいたいと願っている。できることなら、人から褒めてもらいたいのだ。そのために努力をすることは当然であろうし、「名を上げたい」と願うことは「力」にもなる。功名心は密かに自分の胸の中に収めておくべきで、功名心が過ぎて、人を陥れたり、偽造をしたり、そうした負の面があることも事実だろうが、それはその人の心の問題のように思う。
それよりも気になったのは、関東で旧石器を発見した、同じ素人考古学者の若者を主人公が諭す場面だ。若い素人考古学者も「先生は変ってしまわれた」と言い返していたが、あれだけ学歴にそして学閥に苦しめられてきた主人公も、大学の先生という地位を得てしまうと、苦しんできたことでさえ忘れてしまうのかと思った。権力を手にした者が腐敗していくのと同じだ。人はそういう運命なのだろうかとさえ思った。
71歳で総理大臣のイスに座ることになった人もいれば、63歳にして3度結婚し3度離婚し、「波乱万丈の人生でね。にっちもさっちもいかなくなってしまった」と開き直る人もいる。その同じクラスメートに「上品な生き方、納得できなくても気品有る生き方をしたい」と言う人もいる。30日のクラス会では、そんな自分たちの生き方論に花が咲くのかな?