友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

井上真央が好きがわからない

2007年09月22日 23時16分05秒 | Weblog
 孫娘は、女優の井上真央さんが好きで、真央さんが出ている番組を探し出して見ている。見ているといっても、家では見られないので、我が家のテレビで録画し、1週間分をまとめて見ている。月曜日に最終回を迎えた『ファーストキッス』と、再放送の『キッズワアー』だ。真央さんの「ふざけんじゃーねーよ」という男言葉がどうにも気になって、私は好きになれないが、孫娘は「そこがいい」と言う。『キッズワアー』は6年くらい前のドラマのようだが、真央さんの演技は全く変らない。だから大根役者だと思うのだが、孫娘は「真央ちゃんて、ホント演技うまいよね」と言うから、いったい何が基準なのかと思ってしまう。

 真央さんの口の形も私は好きになれない。男だから、女ならば誰でも好きになれるのかというと、そうではないところがおもしろいと思う。見ていると、たくさんの人から好きかれる人がいる。女優とか男優で人気の高い人はそういう要素をたくさん持っているのだろう。特別な人を除けば、人はそこそこ皆同じだ。相手の中によさを見つけるから「好き」になるのだ。この地球には60億人の人がいる。しかし、人が出会える人の数は知れている。出会いは運命であり、必然といっていい。あばたもえくぼというようなことがなければ、恋愛なんて成り立たない。

 ところで、孫娘はこうして我が家で井上真央主演のテレビドラマを見ていることは、母親には一切内緒だ。だから母親もこのブログを見たからといって、自分の娘を問い詰めるようなことはやめてもらいたい。なぜ、母親にテレビドラマを話題にできないのか、まずそのことをよく考えて欲しい。私も昔はテレビドラマを子どもたちに制限なく見せなかった。それでも、子どもたちは親の言うことを聞いて、それを守っていたわけではない。「ダメだ」と言っていた私も、自分の知らないところで、見ていたことまで咎めたりはしなかったと思う。子どもはいずれ、親に内緒で行うことが増える。これは大人になっていくからだと思う。

 いつかは、対等に親子が話し合う時が来るし、親の経済力がなくなった段階で、親も子どもに従うものだ。昔から言うではないか。「老いては子に従え」。私はそれでよいと思っている。私が「自分は政治の世界で表に立つことはない」と言うのも、自分の年齢を知っているからであり、たとえ不満であっても、若い人たちに任せる他ないと考えるからだ。ある面では、私のほうが若い人たちよりも「考えが若い」かもしれないが、それゆえ自分では歯がゆい気持ちではあるが、だからといって年寄りが表に立つことは間違っていると思う。自分の考えを表明することは最後までやめないが、それ以上の行為はやめておこうと決めている。

 孫娘が次にどんな俳優を好きになるのか、いや俳優ではなく、現実の世界で心惹かれる人がいずれは出てくるだろう。どんな人なのか、楽しみであり、ちょっと不安でもある
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫娘の体育大会

2007年09月22日 00時00分10秒 | Weblog
 孫娘が楽しみにしていた体育大会が昨日終わったのに、ご機嫌が悪い。「どうした?」と尋ねても返事もしない。「リレーはどうだった?」と聞くと「ビリ!」とそっけない返事が返ってきた。そうか、なるほどねと合点する。孫娘はこの体育大会に大きな期待をしていた。体育大会の前から、「バトン渡しがカギだから」とリレーのメンバーに話し、そのための練習を提起していたが、結局は天候が悪くて、大会当日の朝しかできなかった。それでも早くから起き、午前7時には家を出て、みんなで広場で練習を積み重ねた。それだけ周到な練習をして挑んだのに、結果は出せなかったのだから、機嫌が悪いのも無理はない。

 「でもママは、バトン渡しは一番上手だったと言ってくれた」と言う。少しだが気がほぐれたのだろう。「他のクラスはみんな速い子ばかりだったから」と負けた理由も教えてくれた。孫娘がこの体育大会で目標にしていたものが2つある。その1つが女子400メートルリレーで優勝することだった。しかし結果は惨敗だった。もう1つは、母親もこの中学校の卒業生だが、母親が20年以上も前に出した100メートル走の記録が未だに破らず、毎年の体育大会プログラムに名前が載っている。

 孫娘は「絶対に私がママの記録を破る」と宣言していた。ところが、小学校の6年生の時、100メートル走では勝っていた友だちに負けた。水泳の孫娘と違い、その子はバスケットボール部だというから、毎日が練習のようなものだ。「チーター」とあだ名されている孫娘は、走る時も首をすくめていて、本当にチーターのようだが、身体も小さくて見た目ほど速くはないのかもしれない。しかし、この結果については大変ショックだったようで、不機嫌になっていたのだろう。

 私は小さい時から怠け者で、目標を設定しコレに向けて努力するということが苦手だった。いつもなりゆき任せだった。50代になって初めてで最後になるが目標を置いた。これからは市民が主体の自治であるべきで、情報公開と市民参加を徹底的に推し進めた自治体を実現するために首長になろうと思った。私は努力が足りなかったが、孫娘は「努力すれば結果は出せる」と信じている。4歳から水泳に取り組んできた成果である。水泳のコーチから常に目標を設定し、これに向かって努力することを教えられた。

 人はこうして努力を重ねることで成果を得る。「努力すれば報われるが、努力しなければ成果は出せない」ことを身体で習得しているのだ。だから彼女は、運動だけでなく、勉強についても努力を惜しまない。本当にエライやっちゃと感心する。しかし、不安な面がないわけではない。確かに人は努力することが大切だ。けれども、努力にも限界はある。どんなに努力しても超えられない壁があるものもある。そこをどのように見抜いて、次へ進むかだ。人にはいろいろあって、それでいいのだと理解するとともに、だからこそ努力しようとする人間になって欲しい。

 みんながみんな、東大に入れるわけでもないし、東大に入れれば幸せが約束されているわけでもない。学者は必要だが、同じように寿司職人も必要だし、社会を支えている様々な業種が実は必要なのだと知って欲しい。だから、私たちの前の人々は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言い、「職業に卑賤の差別なし」と言ってきたのだ。お金持ちがいるではないか、貧乏人がいるではないか、現実を見よと言う人がいる。確かにそのとおりだ。それが間違っているなら正せばいいし、正せないのなら正しい方に近づければいい。

 人の社会は、人自身が作り出したもの。神のご加護の下に正せばよい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする