朝、三浦均君から電話がかかってきた。尾張旭市から実家に引っ越したというハガキをもらったので、一度会いに行きたいとEメールを送って1年ほどになる。三浦君は、名古屋では有名なイラストレーターだ。いくら教え子でも、私は彼の足元にも及ばないから、「クン」では失礼になってしまうので、これからは「さん」で書くことにしよう。
教え子と書いたけれど、これも正確に言えば、どういうわけかこの学年は一度も担任を受け持たなかったし、授業もなかったと思う。デザイン科のクラスは1つしかなく、3年間一緒だから授業はなくても顔はよく知っている。彼は体制とか権威とかいうものには反抗的だったからより印象深い。一度だけだと思うけれど、絵画の先生が休まれたのでその代わりに授業に出かけていった。それが教師として、彼には最初で最後ではなかったかと思う。
三浦さんから平成6年に長い手紙をもらった。私はすでに教師を辞めて、地域新聞を作っていたが、手紙を読んで、「先生という仕事はいいな」と強く思った。教師冥利に尽きるこの手紙を「載せていいか」と、彼に会って許可を得たいと願っていたところに、彼の方から我が家へ来てくれたことも不思議な縁だ。彼の最近の作品を見せてもらい、その技術の高さもさることながら作品への思いの深さに圧倒された。さすがにニューヨークで賞を受けた人である。
話が一区切り付いたところで、「あなたからにいただいた手紙があるのだけれど、これを私のブログに掲載してもいいかな」と手紙を見せた。彼はこの時の授業のことはよく覚えていると言い、「かまいませんよ」と言ってくれた。手紙の一部だが、それをここにそのまま掲載する。
▽▽▽
僕には“今の自分を創った教師の言葉”というのが2つあって、その一つが鈴 木先生の言葉です。
先生のその一言は、僕に大変な勇気と自信を与えて下さいました。そして今も それを信じ、生きています。
おそらく先生はお忘れになったかもしれませんが、その言葉とは「三浦君はク ロッキーはうまいなあ」の一言です。たったこれだけの言葉が、お絵かき大好き 少年の未来を作り、支えることになったのです。
いえ、決してオーバーに言っているのではありません。あの時クラスで、めい めいが好き勝手に鉛筆でクロッキーをしていたのですが、僕はたまたま毛筆に墨 をつけて描いていて、それを見ていた先生がそうおっしゃったのです。
ひょっとしたらそれは、“クロッキーはうまいが、他はだめ”という言外の意 があって、本当はそれを伝えたかったのかもしれません。
しかし、以後僕は時間があればクロッキーをし、丸栄に入社してからも、営業 中の百貨店の店内、通勤のバスの中、喫茶店の中、飲みに行けばスナックのカウ ンターでと、あらゆるところで、他人の視線にひるむことなく続けることができ ました。
さすがに今は描いていませんが、そういう習練が“イラストレーター三浦均” を創りあげたのは紛れもない事実です。
先生は僕たちの担任ではなく、特定の授業でしか接することがなく残念でした が、この一言をいただいただけでも、先生と出会えたことが自分にとって大変幸 せなことだったと、今でも感謝しております。
そして、おそらくそういう生徒はもっともっといるはずです。
先日、一緒に信州へ行った吹奏楽部のOBもデザイン科の生徒ではあったが、私が22歳で赴任した時の3年生で、このクラスには20歳の生徒もいて、授業はもちろん実習を見ることも滅多になかった。その彼が「先生の作品を見てビックリした」と言う。どこかで私の作品を見てくれたのだ。直接、担任ではなかったような生徒が、私を慕ってくれることに、人の縁の不思議さを感じる。
午後から、丸の内のギャラリーで行われている山田彊一個展を見に行った。山田先生は私の大学の先輩であるだけでなく、現代美術の先導者であり、私を絵の世界に導いてくれたかけがえのない人でもある。ギャラリーに入るといきなり周囲の人に「市長選挙では当選できなかったが惜しくも次点でね」と、いつものようにまくし立てられた。ここでまた、人の出会いの不思議を痛感する。そういう歳になったのかなと思うのだが、山田先生は「次になにをやられますか。老いてはいけませんよ」と、釘を刺してくれた。
そういえば今日は9・11テロの日だ。もう一度何かやりますか。
教え子と書いたけれど、これも正確に言えば、どういうわけかこの学年は一度も担任を受け持たなかったし、授業もなかったと思う。デザイン科のクラスは1つしかなく、3年間一緒だから授業はなくても顔はよく知っている。彼は体制とか権威とかいうものには反抗的だったからより印象深い。一度だけだと思うけれど、絵画の先生が休まれたのでその代わりに授業に出かけていった。それが教師として、彼には最初で最後ではなかったかと思う。
三浦さんから平成6年に長い手紙をもらった。私はすでに教師を辞めて、地域新聞を作っていたが、手紙を読んで、「先生という仕事はいいな」と強く思った。教師冥利に尽きるこの手紙を「載せていいか」と、彼に会って許可を得たいと願っていたところに、彼の方から我が家へ来てくれたことも不思議な縁だ。彼の最近の作品を見せてもらい、その技術の高さもさることながら作品への思いの深さに圧倒された。さすがにニューヨークで賞を受けた人である。
話が一区切り付いたところで、「あなたからにいただいた手紙があるのだけれど、これを私のブログに掲載してもいいかな」と手紙を見せた。彼はこの時の授業のことはよく覚えていると言い、「かまいませんよ」と言ってくれた。手紙の一部だが、それをここにそのまま掲載する。
▽▽▽
僕には“今の自分を創った教師の言葉”というのが2つあって、その一つが鈴 木先生の言葉です。
先生のその一言は、僕に大変な勇気と自信を与えて下さいました。そして今も それを信じ、生きています。
おそらく先生はお忘れになったかもしれませんが、その言葉とは「三浦君はク ロッキーはうまいなあ」の一言です。たったこれだけの言葉が、お絵かき大好き 少年の未来を作り、支えることになったのです。
いえ、決してオーバーに言っているのではありません。あの時クラスで、めい めいが好き勝手に鉛筆でクロッキーをしていたのですが、僕はたまたま毛筆に墨 をつけて描いていて、それを見ていた先生がそうおっしゃったのです。
ひょっとしたらそれは、“クロッキーはうまいが、他はだめ”という言外の意 があって、本当はそれを伝えたかったのかもしれません。
しかし、以後僕は時間があればクロッキーをし、丸栄に入社してからも、営業 中の百貨店の店内、通勤のバスの中、喫茶店の中、飲みに行けばスナックのカウ ンターでと、あらゆるところで、他人の視線にひるむことなく続けることができ ました。
さすがに今は描いていませんが、そういう習練が“イラストレーター三浦均” を創りあげたのは紛れもない事実です。
先生は僕たちの担任ではなく、特定の授業でしか接することがなく残念でした が、この一言をいただいただけでも、先生と出会えたことが自分にとって大変幸 せなことだったと、今でも感謝しております。
そして、おそらくそういう生徒はもっともっといるはずです。
先日、一緒に信州へ行った吹奏楽部のOBもデザイン科の生徒ではあったが、私が22歳で赴任した時の3年生で、このクラスには20歳の生徒もいて、授業はもちろん実習を見ることも滅多になかった。その彼が「先生の作品を見てビックリした」と言う。どこかで私の作品を見てくれたのだ。直接、担任ではなかったような生徒が、私を慕ってくれることに、人の縁の不思議さを感じる。
午後から、丸の内のギャラリーで行われている山田彊一個展を見に行った。山田先生は私の大学の先輩であるだけでなく、現代美術の先導者であり、私を絵の世界に導いてくれたかけがえのない人でもある。ギャラリーに入るといきなり周囲の人に「市長選挙では当選できなかったが惜しくも次点でね」と、いつものようにまくし立てられた。ここでまた、人の出会いの不思議を痛感する。そういう歳になったのかなと思うのだが、山田先生は「次になにをやられますか。老いてはいけませんよ」と、釘を刺してくれた。
そういえば今日は9・11テロの日だ。もう一度何かやりますか。