友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

自由に飛べ

2007年09月03日 22時11分54秒 | Weblog
 日曜日の朝、先にサナギになった方から蝶が飛び出した。女子マラソンを見ていて、実際に羽化するところは見損なってしまった。ミカンの木が置いてある部屋に行くと、何かが動いた。フワッとした柔らかな動きだ。窓辺にアゲハチョウがいる。羽化して間がないのだろう。羽をいっぱいに広げて、空気に触れさせようとしている。サナギの時は5センチもなかったのに、羽を広げると10センチ以上はある。

 このミカンの木にはたくさんの幼虫が葉をバリバリと食べていた。それがいつの間にかいなくなってしまった。そのことが気になって、最後の2匹になった時に、家の中にいれた。どうしていなくなってしまったのか、それはまだ謎だけれど、外敵から守ってやれば必ず蝶になることはハッキリした。イモムシからサナギになる時、1匹は床に落ちてきた。これは今年のことではないが、ミカンの木から遠い鉢の縁で越冬したサナギを見つけたこともある。

 アゲハチョウのサナギには緑色のものと茶色のものと2種類ある。初めは違う蝶だと思っていたが、そうではなく、昆虫によくある擬態のようだ。鉢のような茶色のものにへばりついて羽化する時は茶色のサナギになり、ミカンの木に残って羽化する時は緑色のサナギになるようだ。確かにどちらも保護色に囲まれ、見つけにくい。昆虫の偉大な智恵というべきか。

 イモムシの時も、小さな時は茶色くてまるで鳥か虫のフンのようだ。それが見る間に大きくなって美しい緑色に変わる。よく見ないとどこにいるのかわからないくらいよくできている。それでも人間の私は彼らのフンがどこに落ちているかで、居場所を見つけ出す。私がイモムシを食べる小鳥ならば的中率は100%だ。さて、それにしてもそうして育ったたくさんのイモムシが突然いなくなってしまうのはどうしてなのだろう。

 今、サナギのもう1匹も明日の朝には羽化するかもしれない。できればその様子を知りたいと思うけれど、それよりも無事に飛び立って欲しい。我が家のルーフガーデンにはたくさんの花が咲いている。どこからかわからないが、虫が来て花を食べたり、葉を食べたりしている。大きな被害がないうちは虫を退治しない。彼らも必死で生きているのだから、我が家の花もまた多少は彼らの犠牲にならなくてはならないだろう。それが自然というものだと私は思っている。

 昔、好きになった女性を、蝶を飼育するように閉じ込めてしまう洋画があったが、そしてまた日本でも何年にもわたって女の子を部屋に閉じ込めていた事件があったが、確かに美しいものを自分だけで独占しておきたい気持ちはよくわかる。けれどもこの蝶ですら、自由に飛び交う権利がある。生きているものは全て、背負う運命があり、それを自分の勝手な思いで変えてはならないはずだ。なかなか飛び立たないアゲハチョウを外の自由な世界に戻してやることが私の役目だ。脅かさないようにそっとそっと近づいて、網戸を開けてやる。

 それでもアゲハチョウはジッとして動かない。羽化しても何も食べていないのだからエネルギーが残っていないのかと心配になる。少しずつ動かして、やっと外へと導き出した。サッと羽を広げ、アゲハチョウは見事に空中を飛行していった。ああよかった。これであのアゲハチョウも蝶になれた。青い空をヒラヒラとどこへ行くのだろう。鳥に食べられたりはしないのだろうか。たとえそうなったとしても、部屋の中で閉じ込められて過ごすより、本来の「蝶」だったのではないかと思う。
コメント
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