私は日本人の書いたものはできるだけ読まないと決めてしまっていた。だからといって、外国語の精通していたわけではないので、日本人の小説とか随筆といった類のものというような誠に愚かな思い上がりだった。なぜそうなったのかははっきりとわからないが、とにかく幼い時に体験した、あの隣り近所なるものの、口やかましさ、因習、そうしたものがとてもいやだった。
それらは、日本人の島国性なる特有のものと決め付けていた。そういうものが自分にたとえ身についてしまっていても、自分は西洋の合理主義、人間の個人の尊重、愛を学ぶというか求めることで、払拭していきたいと思っていた。だから、私は日本の古典や漱石や鴎外や龍之介も教科書以外のものは読まなかった。それなのに、大江健三郎や高橋和己や太宰治は好んで読んだから、この理屈は単なるヘリクツなのかもしれない。
私は毎朝、コーヒーがないと一日が始まらないし、パンもサラダも好きな日本人である。自分では日本人離れした日本人だと思っているのに、好きな文豪のヘルマン・ヘッセやド不とエフスキーよりも高橋や太宰の方がよくわかるのだ。結局、私は、少しも西洋人にはなれていない。カミさんは「自分では西洋的だと思っているかもしれないけれど、ずいぶん浪花節的なのよ」と私を評してくれる。自分が抜け出したく思っているもの、自分が取り込めたく思っているもの、この二つはいつの間にか、私の中で逆転し、定着してしまっているようだ。
嶋岡晨という人が書いた『愛と孤愁の詩人たち』という本(題名が間違っているかもしれない)に、8人の詩人が出てくるのだが、「この中で一番誰に似ているかな?」とカミさんに聞いてみた。「そうね、犀星でもなければ光太郎でもないし、朔太郎というところかしら」と言うが、あなたはとても詩人には似ていなし、詩人にはなれないと言いたかったのかもしれない。「でも、朔太郎はとてもだらしないなりだったとあるから、あなたのような几帳面な人とはまるっきり正反対ね」と言ったのは、ぐなゃぐなゃととらえどころがない点では似ているということなのだろうか。
私自身は啄木に似ているような気がする。気弱で意志の弱いところが似ているように思うけれど、啄木は社会に目を向け、社会と自己との対決へ迫る強さを持っている。思春期から青年期における悩みや苦しみも、青年であるならば当たり前のものだということを、この詩人たちの青春を読むことで知り、過去の重くのしかかる暗い部分が少しは軽くなったような気がする。
以上は1980年、私の36歳の時の日記だが、全く何も変わっていないと思う。朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』の同じ場面を2度3度見てもやはり泣いてしまう。成長していないのか、いやそうではないようにも思う。『愛と孤愁の詩人たち』の中身は何一つ覚えていないが、今の自分はかなり達観して受け止められるようになったと思っているのだが、どうだろうか。
それらは、日本人の島国性なる特有のものと決め付けていた。そういうものが自分にたとえ身についてしまっていても、自分は西洋の合理主義、人間の個人の尊重、愛を学ぶというか求めることで、払拭していきたいと思っていた。だから、私は日本の古典や漱石や鴎外や龍之介も教科書以外のものは読まなかった。それなのに、大江健三郎や高橋和己や太宰治は好んで読んだから、この理屈は単なるヘリクツなのかもしれない。
私は毎朝、コーヒーがないと一日が始まらないし、パンもサラダも好きな日本人である。自分では日本人離れした日本人だと思っているのに、好きな文豪のヘルマン・ヘッセやド不とエフスキーよりも高橋や太宰の方がよくわかるのだ。結局、私は、少しも西洋人にはなれていない。カミさんは「自分では西洋的だと思っているかもしれないけれど、ずいぶん浪花節的なのよ」と私を評してくれる。自分が抜け出したく思っているもの、自分が取り込めたく思っているもの、この二つはいつの間にか、私の中で逆転し、定着してしまっているようだ。
嶋岡晨という人が書いた『愛と孤愁の詩人たち』という本(題名が間違っているかもしれない)に、8人の詩人が出てくるのだが、「この中で一番誰に似ているかな?」とカミさんに聞いてみた。「そうね、犀星でもなければ光太郎でもないし、朔太郎というところかしら」と言うが、あなたはとても詩人には似ていなし、詩人にはなれないと言いたかったのかもしれない。「でも、朔太郎はとてもだらしないなりだったとあるから、あなたのような几帳面な人とはまるっきり正反対ね」と言ったのは、ぐなゃぐなゃととらえどころがない点では似ているということなのだろうか。
私自身は啄木に似ているような気がする。気弱で意志の弱いところが似ているように思うけれど、啄木は社会に目を向け、社会と自己との対決へ迫る強さを持っている。思春期から青年期における悩みや苦しみも、青年であるならば当たり前のものだということを、この詩人たちの青春を読むことで知り、過去の重くのしかかる暗い部分が少しは軽くなったような気がする。
以上は1980年、私の36歳の時の日記だが、全く何も変わっていないと思う。朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』の同じ場面を2度3度見てもやはり泣いてしまう。成長していないのか、いやそうではないようにも思う。『愛と孤愁の詩人たち』の中身は何一つ覚えていないが、今の自分はかなり達観して受け止められるようになったと思っているのだが、どうだろうか。