友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

不登校

2008年02月22日 23時39分04秒 | Weblog
 確か、小学4年の時だと思うけれど、学校へ行けなくなった時があった。自動車整備工場の息子で、身体も大きくて威張っているボスがクラスにいた。その男には子分の左官屋の息子がいつもついていた。ボスはプロレスが好きで、授業後の教室にみんなを集めてプロレスごっこをやった。ボスの家にはテレビがあって、プロレス中継を見ていたのかもしれない。

 チビでおとなしくて色白でやせていた私も残されて、相手をさせられた。ボスが私を授業後に残したのは、級長がいれば担任に見つかってもそんなにひどく叱られることはないだろうという読みがあったのだろう。商売人の息子だったからか、その辺の計算をする子だった。親分肌で全ての責任を自分が負うタイプではなかった。

 私の家にはまだテレビがなかったのか、あっても見ていなかったのか、プロレスの技を私は知らなかった。それでなくても、取っ組み合いには全く興味がなかったから、毎日残されてプロレスごっこをさせられるのがイヤだった。「学校へ行きたくない」と言って、休んだ。何日休んだのかわからないが、多分理由を聞いた親が担任に話しに行き、それから学校へ行くようになったのだと思う。

 これはプロレスごっこの前のことだと思うけれど、写生大会の時、ボスが自分の画用紙を持ってきて、絵を描いておけと言った。ボスの絵を描いているうちに、自分の絵を仕上げる時間がなくなってしまった。私が描いたボスの絵は入賞したが、私の名前の絵は入賞しなかった。全く中途半端な作品だったから当然だった。悔しい気持ちが私にはあった。

 姉の家に遊びに行くと、義兄がよく相撲を教えてくれた。畳の上で、何度も何度も転ばされた。これでもかこれでもかとひっくり返された。結局、その取り組みで、体の小さい者が体の大きい者に勝つためにはどうするかを教えられた。義兄は「ケンカは先手必勝だ。スピードが決めてだぞ」と教えてくれた。小学6年の時、新任の先生と砂場で相撲を取った。義兄の教えが活かされて、私は先生に勝った。それが自信になった。

 学校に行けなかったのはその時だけだった。以来、一度も同じクラスになったことはなかったし、中学生になった時には立場は逆転していた。40歳を過ぎて、クラス会で故郷に帰った時、2次会のスナックで全く偶然に小学4年の時のボスに出会った。自動車修理工場の社長ではなく、アクセサリーなどの貴金属の商売していると言っていたが、色褪せた風格のない中年男になっていた。

 小学校時代の話になって、友人の一人がよくいじめられた話を持ち出したが、ボスは「そんなことあったか?」と言う。いじめられた側の人間は決して忘れないのに、いじめた人は何も覚えていない。やつれて勢いもなくうだつの上がらぬ男がかわいそうにも思えたが、時間の経過がこんな結果を見せてくれたことが驚きだった。
コメント (2)
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