先日、映画を観に行った時にやっていた予告編が妙に気になった。ドイツ映画で、エロチックな映画だった。怪しげで官能的でぞくぞくする雰囲気が漂っていた。原作は川端康成とある。えっ、日本文学に疎かったけれど、川端康成ってこんな官能的な小説を書いていたのかと思った。
とにもかくにも、原作を読んでみたいと思い、新潮文庫の『眠れる美女』を買ってきた。昔、中学生と時だと思うが、父の書棚から三島由紀夫の『美徳のよろめき』を隠れて読んだことがある。どんなストリーだったか全く覚えていないが、ドキドキしながら読んだことだけは覚えている。
川端康成は『伊豆の踊り子』しか読んだことがない。それもいい加減な読み方だったと思う。じめじめとあるいはべたべたと文章が続く日本の小説家の作品は、自分を同じ島国根性へと陥れるものだと、観念的にそう思い込んでいたから、ずーと避けてきた。
今になって、川端康成の『眠れる美女』を読んでみて、どうしてこれがノーベル文学賞作家の作品なのか私にはわからない。少なくとも同じノーベル文学賞作家の大江健三郎は、人間は何か、社会は何かをテーマにしているように私には思えた。けれども、『眠れる美女』にはそうした課題を見出すことができない。
あとがきで、三島由紀夫が「形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である」と書いているが、それはそのとおりであるけれど、だから何だ?と思ってしまう。小説では女は眠ったままなので、三島は続けて「相手が眠っていることは理想的な状態であり、自分の存在が相手に通じないことによって、性欲が純粋性欲に止って、相互の感応を前提とする「愛」の浸潤を防ぐことができる。ローマ法王がもっとも嫌悪するところの邪悪はここにある。それは「愛」からもっとも遠い性欲の形だからである。」と書いている。
「性欲が純粋性欲に止まって」だって?私はやはり『チャタレー夫人の恋人』の方が納得がいく。死人のような女に性欲が湧くわけはないと思うし、仮にそうであるなら、どんな状況でも強姦できる奴と代わらないではないか。「愛」は相互の感応を前提とせずには成り立たない。そうでない「愛」が存在するとは私には思えない。
川端康成が『眠れる美女』を「新潮」に連載していたのは、丁度私と同じ62~3歳の頃だと思う。そう思うと若い三島由紀夫よりももっとよく川端康成が描こうとしたものがわかる気がする。老いていく者の哀れな性への執着がそこにあるからだ。確かに老いた男の迷いや望みや葛藤がそこにはあるが、じゃあ、女はどうなのか、女はただただ男の玩具なのかと疑問が湧いてくる。
男が女に求めるものがあるように、女も男に求めるものがあるはずだ。だからこそこの世の中は成り立っているのに、川端康成にはどうして女の視点がないのだろうか。ドイツ人監督が描いた『眠れる美女』がどんなものなのか、映画を観てみたいと思う。
とにもかくにも、原作を読んでみたいと思い、新潮文庫の『眠れる美女』を買ってきた。昔、中学生と時だと思うが、父の書棚から三島由紀夫の『美徳のよろめき』を隠れて読んだことがある。どんなストリーだったか全く覚えていないが、ドキドキしながら読んだことだけは覚えている。
川端康成は『伊豆の踊り子』しか読んだことがない。それもいい加減な読み方だったと思う。じめじめとあるいはべたべたと文章が続く日本の小説家の作品は、自分を同じ島国根性へと陥れるものだと、観念的にそう思い込んでいたから、ずーと避けてきた。
今になって、川端康成の『眠れる美女』を読んでみて、どうしてこれがノーベル文学賞作家の作品なのか私にはわからない。少なくとも同じノーベル文学賞作家の大江健三郎は、人間は何か、社会は何かをテーマにしているように私には思えた。けれども、『眠れる美女』にはそうした課題を見出すことができない。
あとがきで、三島由紀夫が「形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である」と書いているが、それはそのとおりであるけれど、だから何だ?と思ってしまう。小説では女は眠ったままなので、三島は続けて「相手が眠っていることは理想的な状態であり、自分の存在が相手に通じないことによって、性欲が純粋性欲に止って、相互の感応を前提とする「愛」の浸潤を防ぐことができる。ローマ法王がもっとも嫌悪するところの邪悪はここにある。それは「愛」からもっとも遠い性欲の形だからである。」と書いている。
「性欲が純粋性欲に止まって」だって?私はやはり『チャタレー夫人の恋人』の方が納得がいく。死人のような女に性欲が湧くわけはないと思うし、仮にそうであるなら、どんな状況でも強姦できる奴と代わらないではないか。「愛」は相互の感応を前提とせずには成り立たない。そうでない「愛」が存在するとは私には思えない。
川端康成が『眠れる美女』を「新潮」に連載していたのは、丁度私と同じ62~3歳の頃だと思う。そう思うと若い三島由紀夫よりももっとよく川端康成が描こうとしたものがわかる気がする。老いていく者の哀れな性への執着がそこにあるからだ。確かに老いた男の迷いや望みや葛藤がそこにはあるが、じゃあ、女はどうなのか、女はただただ男の玩具なのかと疑問が湧いてくる。
男が女に求めるものがあるように、女も男に求めるものがあるはずだ。だからこそこの世の中は成り立っているのに、川端康成にはどうして女の視点がないのだろうか。ドイツ人監督が描いた『眠れる美女』がどんなものなのか、映画を観てみたいと思う。