友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

確定申告

2008年02月29日 22時02分33秒 | Weblog
 昨日、確定申告を終えた。役所というのは不思議なところで、別に悪いことをしているわけでもないのに、なぜか緊張する。私の確定申告は明瞭そのもので、どこにもごまかすようなところがない。それなのに、緊張してしまうのは、役所が持っている雰囲気なのかもしれない。受付で番号札をもらうのだが、「いらっしゃいませ。ご苦労様です。お茶を用意しておりますから、どうぞこちらで、お茶でも飲みながら、順番をお待ちください。できるだけ、皆様に長くお待ちいただかなくてもよいように、精一杯やらせていただきます」と、そのくらいのことでも言って欲しい。

 医院の診察待ちでもそうだ。どうしてお金を払う側が小さくなっていなくてはならないのか。病気になったことが申し訳ないような気持ちで診察を受けるけれど、患者が来てくれるから医院は成り立つのだから、もっと患者は堂々としていてもよいはずだ。医者の「先生」には、病気を治療して助けてもらわなくてはならないから、その意識が働くから、小さくなってしまうのだろう。役所も、本来なら私たちの代わりを務めてくれるところなのだし、そのための活動資金である税金を納めているのだから、たとえ私たちの側に不備な点があったとしても、役所は「ありがとうございます。ここだけちょっと訂正していただけませんか」と言うべきだ。

 そんなエラそうなことを書いたが、実はかなりガックリしている。これまではいつも、払いすぎていた税金から還付してもらっていたのに、今年は「はい、これでいいですよ」と言われ、よく観るが税金の欄がゼロである。扶養家族の主婦と同じだ。「税金がかからない。バンザイ」と主婦の方は思うかもしれないが、これまでは税金を納めてきた人間としては、ちょっとばかり寂しい思いだ。税金を納めることがなくなったことがイーコル不要の人間というわけでは決してないけれど、なぜか石原東京都知事ならそう言いかねないなと思った。

 今、国は赤字を抱え、税金を上げたいけれど上げられず、減税を取りやめたり、取れる税は何が何でも取ってしまおうとしている。税収が減れば、事業と人件費を減らす、そういうシステムにすればよい。税金は湯水のように遣われてしまうが、それは税金を払っている私たち国民が使い道に関心がないからだ。赤字を生み出したのは、国から借金をして事業をやれとしてきた政府に全ての責任があるのに、「苦しいのはお互い様で、みんなでこれを乗り越えましょう」という論理に納得しているからだ。
コメント
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