暑い日になった。これまで一度もクーラーを使っていなかったけれど、どうにも我慢できなくてスイッチを入れた。夕方、外に出るとまだ焼け付くような暑さだった。夏はいつもこんな暑さだったと思い出した。空を見上げると、入道雲が夕日を受けて輝いていた。昨日もそうだったけれど、雨雲のような低い雲と一方に、青い空に聳え立つような入道雲が目に入る。これから本格的な夏になるのだろうか。
午後、炎天下の運動場で小学生の野球チームが練習をしていた。こんな暑い中でよく頑張るなあと感心した。日が沈みかけるとたくさんのグループがどこからともなくやってきて、運動場は華やかになった。昼間の練習の時は必死な掛け声だったけれど、涼しさが漂うこの時は楽しそうな声があちらこちらから聞こえてきた。夏休みの夕暮れ時の長閑な風景が今日も見られた。
「今日までに一番楽しかったことはなぁーに?」と問われたら、人は何と答えるだろう。もっとも時間的に近くで起きたことだろうか、それとも時間的には大昔になる古い時代のことだろうか。流れ去った昔のことは取り返すことは出来ない。かといって、今のこの現時点は余りにも複雑で自分のことなのに整理がつかないことが多い。
楽しかったことはいくらでもあるし、羅列したなら相反しているために、ボツにしなければならないこともあるだろう。自分が良しと思うことでも他の人から見れば許せないということだってある。人はとても矛盾した存在だと思う。何度も取り上げてしまうけれど、夏目漱石の『こころ』では、友人が恋する人を奪い結婚してしまう「先生」は最後には自殺してしまうが、先生に恋されて結婚した女性を夏目漱石はどう考えていたのだろう。
昔、私と一緒に無党派・市民派で活動していた友人が、もちろん彼は自分では進歩的と思っていたとしても保守的であったと私も思うけれど、ジェンダーを標榜する友の家に電話をして、「ご主人はみえますか?」と尋ねた。するとカミさんは「つれあいならいますが、主人はいません」と答えた。それで友人は「私はついていけないので会を脱退する」と言った。この回答に間違いはないし、彼女は進歩的と称している人間も実は保守的なのだと思い知らせたかったのだろうこともよくわかる。
しかし、私は悲しかった。そう言わなければ、自分の間違いに気がつかない人が多いことは事実だろう。けれども、もっと大きな気持ちにはなれなかったのかと思う。理論的に正しいからといって、絶対ではないと私は思っている。相手の弱点ばかりを挙げ、批判したところで、それで批判された人間が本当に大きくなれるだろうか。批判している人間は本当に完璧な人間なのだろうか。自分もまた非難されるべき人間であるというならば、人は平等な関係だと思うけれど、そうではなく完全無欠であれば平等とは遠いものになってしまう。
炎天下で子どもたちに教えていたリーダーはどうなのだろう。子どもではなく大人同士の場合はどうなのだろう。まだまだ熱い夏は続くのだろうか。(昨夜、ブログは立ち上げたはずだったのに、今朝見て送っていないことに気がついた。ああ、情けない。それで今晩はブログ休みます。)
午後、炎天下の運動場で小学生の野球チームが練習をしていた。こんな暑い中でよく頑張るなあと感心した。日が沈みかけるとたくさんのグループがどこからともなくやってきて、運動場は華やかになった。昼間の練習の時は必死な掛け声だったけれど、涼しさが漂うこの時は楽しそうな声があちらこちらから聞こえてきた。夏休みの夕暮れ時の長閑な風景が今日も見られた。
「今日までに一番楽しかったことはなぁーに?」と問われたら、人は何と答えるだろう。もっとも時間的に近くで起きたことだろうか、それとも時間的には大昔になる古い時代のことだろうか。流れ去った昔のことは取り返すことは出来ない。かといって、今のこの現時点は余りにも複雑で自分のことなのに整理がつかないことが多い。
楽しかったことはいくらでもあるし、羅列したなら相反しているために、ボツにしなければならないこともあるだろう。自分が良しと思うことでも他の人から見れば許せないということだってある。人はとても矛盾した存在だと思う。何度も取り上げてしまうけれど、夏目漱石の『こころ』では、友人が恋する人を奪い結婚してしまう「先生」は最後には自殺してしまうが、先生に恋されて結婚した女性を夏目漱石はどう考えていたのだろう。
昔、私と一緒に無党派・市民派で活動していた友人が、もちろん彼は自分では進歩的と思っていたとしても保守的であったと私も思うけれど、ジェンダーを標榜する友の家に電話をして、「ご主人はみえますか?」と尋ねた。するとカミさんは「つれあいならいますが、主人はいません」と答えた。それで友人は「私はついていけないので会を脱退する」と言った。この回答に間違いはないし、彼女は進歩的と称している人間も実は保守的なのだと思い知らせたかったのだろうこともよくわかる。
しかし、私は悲しかった。そう言わなければ、自分の間違いに気がつかない人が多いことは事実だろう。けれども、もっと大きな気持ちにはなれなかったのかと思う。理論的に正しいからといって、絶対ではないと私は思っている。相手の弱点ばかりを挙げ、批判したところで、それで批判された人間が本当に大きくなれるだろうか。批判している人間は本当に完璧な人間なのだろうか。自分もまた非難されるべき人間であるというならば、人は平等な関係だと思うけれど、そうではなく完全無欠であれば平等とは遠いものになってしまう。
炎天下で子どもたちに教えていたリーダーはどうなのだろう。子どもではなく大人同士の場合はどうなのだろう。まだまだ熱い夏は続くのだろうか。(昨夜、ブログは立ち上げたはずだったのに、今朝見て送っていないことに気がついた。ああ、情けない。それで今晩はブログ休みます。)