友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

お墓参り

2009年08月15日 11時44分45秒 | Weblog
 今日は私の家のお墓参り、明日はカミさんの家の仏壇にお参りする。『千の風になって』ではないけれど、お盆だからといって先祖の霊が帰ってきているとは全く思っていない。魂とか霊が存在するなどと考えたこともない。ないけれど、毎年お墓や仏壇にお参りする。自分自身のあるいは家族のセレモニーだと思っているからだ。

 お墓参りの後も仏壇にお参りした後も、集まった親族で会食をする。それが大事なことだと思っているし、できる限り自分の記憶にある亡くなった人たちの思い出を話すようにしている。子どもたちやましてや孫になると、全く会ったことのない人が多くなる。「おじいちゃんは、(あるいはおばあちゃんは)こういう人だったんだよ」と伝えておきたい。

 血のつながりというものも、そんなにたいしたものではないと思う。私には父と母の血は2分の1ずつでも、私の子どもにとっては4分の1、孫には8分の1だ。後天的な影響も自分にとっては父と母の存在は大きいけれど、私の子どもは母方の祖父母しか知らない。私は3男だが、今は上に男は誰もいなくなってしまったので、総領を務めているけれど、姉や私が亡くなれば次の世代の子どもたちは違う形で集うことになるだろう。

 親族の結束を固めることは封建時代までは重要であった。農作業をはじめとする産業は親族の結束が必要であったし、戦いともなれば最も基礎となる戦力であった。資本主義の世界では個人の能力が求められ、親族の結束は後退した。家族の形も変わりつつある。空気や水や資源の共有化が人類の最終地点であるならば、人もまた共有財産となるのかもしれない。

 今の時点では、血のつながりがどのようなものであれ、私たちはまだ自分の先祖にとらわれているし、その思いを子どもや孫にも伝えようとしているに過ぎない。子どもや孫がどのように考え伝えていくかは、子どもたちや孫たちが考え作り出していくだろう。

 父や母がどんな思いで生きてきたのか、知りたくても知りようがないし、知ったところで生きた時代の違いはどうしようもない。それぞれに、その時代その時代を皆精一杯に生きてきたのだと思う。「お前はどうしようもないね」と母は嘆き、父は「好きにするんだな」と呟くだろう。もし仮に、死んだら先祖の霊に出会えるなどということがあるなら、私は出会いたくないな。そのためには長生きした方がいいな。

 さあ、午後には出発する。えっ、午後にお墓参りとビックリする人が多いだろう。ホント!いい加減なのだ!
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