友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

父は夢想家だった

2010年08月14日 19時09分07秒 | Weblog
 お盆は嫁に行った父の妹たちが子どもを連れて帰ってくる。祖母はそんな自分の娘や孫たちのために、おはぎを作ったり、娘のダンナたちのために料理を作ったりしていた。なぜか母はこれに加わらなかったし、ひょっとしたら父も妹たちのダンナと一緒に食事をしたり酒を飲んだりしていなかったかもしれない。私は従兄弟たちがやってくるのが楽しみだった。伯母たちが泊まっていくことはなかったが、従兄弟は私たちの住処の方に泊まることはあった。

 父は長男だったけれど、家業の材木屋を継がず、小説家になりたくて医者を目指していた。小説家になりたくて医者を目指すという発想がよくわからないけれど、森鴎外や斎藤茂吉のような例があるからだろうけれど、ここが父の「夢想家」らしいところだと最近わかるようになった。全く実現不可能なことも可能と勝手に考えてしまうおかしな人なのだ。

 姉の話では、学生で母と結婚した父は、母にお金を出してもらって医大を受けたそうだ。しかしまともに医大受験の勉強をしていたのだろうかと疑問に思ってしまう。母は教員になっていたようだけれど、父はまだ学生で代用教員だったそうだ。家庭を持ちながら、代用教員をしながら、医大の受験勉強をまともにやっていたとは思えない。結果は不合格で、父は教員の道を歩むことになったが、戦争で男性教員が少なくなったこともあって、若くして校長になっている。

 父がどんな校長だったのか私は知らないけれど、父が残した日記を読むと恋をしているなと思う箇所があった。家での父は静かに本ばかり読んでいる人だった。甘いものが好きで、母が亡くなって父と私と妹の3人で暮らしていた時は、よくお菓子を買ってきた。小さなスケッチブックに絵を描いていたけれど、雑誌や新聞のイラストを書き写したもので、なかなかのできばえだった。字は上手で、高校の時、卒業式で送辞を読むことになったが、私の原稿を巻紙に清書してくれた。

 母が亡くなってからの父は、父親というよりも友だちに近いくらいの存在だった。高校で私たちの作った新聞が発送禁止となったので、自分たちで新聞を発行しようと企てた時も何も言わなかった。キリスト教に曳かれて牧師になりたいと言った時も、映画監督になりたいと言った時も、何も言わなかった。父の書棚にたくさんの本が並べてあったけれど、「これを読んだらどうだ」と言うこともなかった。

 高校3年の正月だった。隣の部屋で父が咳き込んでいた。父は妹と一緒に寝ていたから、私はいやに咳き込むなとは思ったがそれ以上は気にしなかった。翌朝、父は異様な姿だった。すぐに兄に連絡し、医者に来てもらった。私が一番覚えているのは、父が醜い姿になっている自分のことをとても気にしていることだった。お漏らしをしていたことや声が出なくなっていることなどを恥ずかしく思っている様子だった。この場に及んでも体裁を気にする人で、不憫な気がした。それから1週間もしないうちに父はこの世を去った。54歳だった。

 父は母を愛していただろうし、すまなく思ってもいただろう。それをどう表現したらわかってもらえるのか、結局わからずじまいだったに違いない。父と母の情交を何度か聞いたことがある。父が母を泣かせていると思ったけれど、母は歓喜で泣いていたのだろう。父はそうすることで母への思いを伝えたかったのかもしれない。どこまでも勝手な「夢想家」の父だったから。
コメント
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