オクラの花がつかないのはどうして?我が家にもらわれてきて、もう1ヶ月以上になる。一昨年は植木鉢が小さかったので、オクラは大きくなれず、花も3回か4回咲き、実をつけただけだった。オクラの苗を探していると話したら、友だちが2本も苗をくれた。今年は絶対に大きく育てようと思い、ルーフバルコニーではなく南側のバルコニーで育てた。もちろん鉢も大きくして肥料も与えた。すくすくと育ち、今では背丈が90センチにもなった。これまでのオクラとは大違いで、葉も大きく育ち見るからにたくさんの花を咲かせてくれそうに思った。
それがどうしたことなのか、未だに花がつかない。花芽らしいものがいっこうに出てこない。ルーフバルコニーでは強風のために鉢がひっくり返ったり、幹が折れてしまうことがある。そうならないようにと南側のバルコニーで育てていて、順調に大きくなってきているのにどうして花が咲かないのだろう。オクラの花は芙蓉に似て、なかなか見事だ。オクラが好きでよく食べるのに、花を見たことがないと言う孫娘にぜひとも見せてあげたいのだが、このままでは秋になってしまう。どうして花をつけないのだろう。
民主党の代表選挙が近づいてきて、小沢一郎さんが出馬する意向だとマスコミは報じている。小沢さんは党内に自分の力を残しておきたいだろうけれど、自ら出馬して総理になる気はないと思っていたのでビックリである。総理になれば、野党は「小沢さんの金の問題」を必ず追及するだろう。「自分は知らなかった」で逃げ切るつもりだとしても、選挙になればその影響は大きく、民主党の後退は必至となるだろう。それが分かっていながら自分が矢面に立つような人ではないと思ったからだ。だからどこまで小沢さんの影響力を温存できるか、その秘策を練っているに違いない。しかし、小沢さんは田中角栄の政治手法に受け継ぐ最後の人だ。日本の政治のために、小沢さんにはやはりここで引退していただく以外にないと思う。
「これまでの人生で、自分は何ができたのだろう」と反省する人は真面目な人だ。家庭をつくり、子どもを育ててきた人は立派な人だ。世の中に生きている人は、必要とされているから生きている。それだけで充分に他人の役に立っている。人の出来ることには限界がある。自分からその範囲を決める必要はないけれど、無理やり何かをやろうとする必要はないだろう。求められるなら求められるままに、求める側なら誠実に、自然に任せていけばいいと思う。
ところが自然に任せてきたのに、どうしてオクラの花は咲かないのかと不思議に思う。いや、咲かないことが自然なのかもしれない。小沢さんの総理は実現しないだろうけれど、小沢さんが存在したこと事態は自然なことだったのだろう。どのように歴史が動いていくのかは、自然な流れなのだろうけれど、それは私たちがどこかで選択した結果なのだろう。
それがどうしたことなのか、未だに花がつかない。花芽らしいものがいっこうに出てこない。ルーフバルコニーでは強風のために鉢がひっくり返ったり、幹が折れてしまうことがある。そうならないようにと南側のバルコニーで育てていて、順調に大きくなってきているのにどうして花が咲かないのだろう。オクラの花は芙蓉に似て、なかなか見事だ。オクラが好きでよく食べるのに、花を見たことがないと言う孫娘にぜひとも見せてあげたいのだが、このままでは秋になってしまう。どうして花をつけないのだろう。
民主党の代表選挙が近づいてきて、小沢一郎さんが出馬する意向だとマスコミは報じている。小沢さんは党内に自分の力を残しておきたいだろうけれど、自ら出馬して総理になる気はないと思っていたのでビックリである。総理になれば、野党は「小沢さんの金の問題」を必ず追及するだろう。「自分は知らなかった」で逃げ切るつもりだとしても、選挙になればその影響は大きく、民主党の後退は必至となるだろう。それが分かっていながら自分が矢面に立つような人ではないと思ったからだ。だからどこまで小沢さんの影響力を温存できるか、その秘策を練っているに違いない。しかし、小沢さんは田中角栄の政治手法に受け継ぐ最後の人だ。日本の政治のために、小沢さんにはやはりここで引退していただく以外にないと思う。
「これまでの人生で、自分は何ができたのだろう」と反省する人は真面目な人だ。家庭をつくり、子どもを育ててきた人は立派な人だ。世の中に生きている人は、必要とされているから生きている。それだけで充分に他人の役に立っている。人の出来ることには限界がある。自分からその範囲を決める必要はないけれど、無理やり何かをやろうとする必要はないだろう。求められるなら求められるままに、求める側なら誠実に、自然に任せていけばいいと思う。
ところが自然に任せてきたのに、どうしてオクラの花は咲かないのかと不思議に思う。いや、咲かないことが自然なのかもしれない。小沢さんの総理は実現しないだろうけれど、小沢さんが存在したこと事態は自然なことだったのだろう。どのように歴史が動いていくのかは、自然な流れなのだろうけれど、それは私たちがどこかで選択した結果なのだろう。