友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

給与や報酬になぜ差があるのだろう

2010年08月29日 22時02分57秒 | Weblog
 8月最後の日曜日。それにしても今日も暑い。この暑さのせいではないだろうけれど、兄が弟を殺したり、父親が家族心中を図ろうとしたり、妻が夫の殺害を依頼したりと、悲しい事件が続いている。そうかと思うと、家族がその生死も知らないような高齢者がいる。いったい、この国の「家族」はどうなってしまったのか。けれどもその反面で、臓器移植法が変わり、本人の意思がどうだったか分からないままに、家族の意思で臓器の移植が5例も行なわれている。

 昨夜の誕生日会でも話題になったけれど、母親からすれば、この子のために誰かが臓器を提供してくれたならば、それはどんなにか嬉しいことだろうというものだった。また逆に、身内が脳死の状態になれば、その臓器が誰かの役に立ち、代わりのように生きていてくれたならば、それもまた嬉しいと思うのではないだろうかということだった。私はそうした当事者ではないから冷酷なのだろうけれど、臓器移植で目立つのは「生への執着」であって、「死」を受け入れる風潮が全くないことだ。

 人はいつか死ぬのに、なぜこうも「死」を受け入れようとしないのだろう。臓器移植を行い、まるでマンガに出てくるサイボークのようになって、「生」にしがみつかなくてはならないのだろう。「オマエに臓器移植で助かる身内がいないから、そんなのんきなことを言っておられるのだ」とお叱りを受けそうだ。確かに私も自分の娘たちが臓器移植でしか生きられないとなれば、何としてでも生きて欲しいと願っていたかもしれない。人間はそれほど強くないことは分かっているつもりだが、それでも本当にそれでいいのかと思ってしまう。

 「死」を素直に受け入れる考え方を私たちは持つべきではないだろうか。5歳とか6歳とかこんなにも若い命が、臓器さえ移植できれば助かるのに、移植できずに亡くなってもいいのか、そう考えてしまう。80歳や90歳ならば、それはもう寿命だというならば、5歳とか6歳もまた寿命と考えていいのではないだろうか。医術はとにかく長く生きさせることのために発展してきたのかもしれないが、ここでそろそろ「終わる命」のあり方を考えてもいいのではないかと思う。

 もう1つ、昨夜の誕生日会で話題になったことで覚えているのは、名古屋市の市議会議員の報酬が高いか低いかと言う問題だった。河村市長が市長の報酬を800万円にしたのは単なるパフォーマンスだと言い、市長ならそれくらいの報酬を受け取っていいし、議員の報酬だって決して高くないと言う人がいた。これはハーバード大学の有名な先生が唱える哲学の問題と同じだと思う。給与とか報酬はどうやって決まるのか、その客観的な基準はあるのだろうかと考えれば、答えは「無い」だろう。

 日産自動車のゴーン社長は年間8億円だったかの給与をもらっている。一方で、売り上げが伸びないからと労働者はたとえば400万円の給与しかない。パート労働者なら200万円なのかもしれない。同じように働いていて、どうしてこのような差が生まれるのか、誰か説明できるのだろうか。人間は生きていくために必要なものがあればいいはずだ。後はプラスアルファだけれど、その差が何千万円とか何億円とかになる必要がどこにあるのだろう。
コメント
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