友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

困ったものだ!

2010年11月04日 21時57分29秒 | Weblog
 昨夜の日本シリーズは、延長11回に中日が1点を入れ、第4戦に勝利した。10回にロッテは1死満塁のサヨナラの好機にダブルプレイでチャンスを潰したから、流れは中日へ傾いたようだ。野球も人生もそう思うようにはならないから面白いのだろう。それでも野球は練習を重ねることで可能性を高めることができるが、人生は努力が必ずしも報われない。いや、人生も野球と同じで、ひたすら努力を惜しまない方が可能性は確実に高くなる。それでも報われないなら、それはまた人生の醍醐味と思えばいい。

 新聞報道によると、特別養護老人ホームや病院などで行なわれる国政選挙の不在者投票で、意思表示のできないお年寄りらの投票用紙に、勝手に候補者名を記入する公選法違反が増えているそうだ。高齢でも元気で意識もしっかりしている人もいるけれど、こうした施設に入居している人は意思表示ができない人がいる。誰でも投票できることは民主主義の基本であるけれど、意思表示ができない人までも投票することに意味があるとは思えない。投票率ばかりを問題にするけれど、意思表示ができない人は有権者からはずしてもいいのではないだろうか。

 先日もちょっと触れたけれど、ある年齢に達したなら投票権を失うことになってもいいのではないかと私は思う。たとえば、中学や高校を卒業で社会に出て、税金を払っているのに投票権はない方が不公平ではないだろうか。高齢になると全ての人が判断力を無くすわけではないとしても、年齢の下に制限があるように上にもあってかまわないだろう。高齢の方々は長い間働き、社会を支えてきてくださったわけだから、60歳定年と同時に投票権を失うことはちょっと無理があるけれど、定年から20年も経てなお若い人たちと同じ権利を有するというのも不公平ではないだろうか。

 昔、高齢になれば山に捨てられた。元気であれば縛り付けられて動けないようにされて捨てられた。元気であっても働き盛りのようには働けない。幾つと決められていたのか知らないが、残っている者が生きていくための掟である。赤ん坊も男の子は働き手として必要なので残したが、女の子は役に立たないからと間引きされた。こうして生産に見合った人数が調整されてきた。私たちはどうも長生きしすぎた。生産にかかわらないのに、生きていくためには消費する。働き盛りの人たちの生産よりも多く消費してしまっているのだろうか。

 そう思うと、いやこれだけ社会の生産能力が向上しているはずだから、高齢者が4人に1人の割合になっても、まだ余力はあるのではないだろうか。そういうことを計算できる人はいないのだろうか。それでもなお、どう考えても高齢者が長生きしすぎている。長生きするならば、それにふさわしい生き方をしなくてはならないと思うけれど、じゃあーどういう生き方をすればいいのだろう。困ったものだ!
コメント
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