何日か前から、夕方になると眠くなる。今日も本を読んでいたら猛烈な睡魔に襲われ、フトンに入るとすぐに眠ってしまった。カミさんはゴルフの練習に出かけている。どうしてあんなに好きなことは時間を気にしないのだろう。好きなことなら誰でも、時間を忘れて没頭することができる。私もバルコニーで土いじりをしているとつい時間のことを忘れてしまう。人は熱中できるものがあることは幸せなことだ。仮に、ゴルフや土いじりではなく、異性だったとしたらもっと幸せなことなのかもしれない。
今日は語呂合わせで「いいふろ」の日だそうだ。先日は「いいふうふ」の日で、どういう夫婦がよいかをテレビが取り上げていた。1)はよく話し合う。2)を忘れたが、3)は適当な距離を置く。というものだった。30代や40代は働き盛りだからどうしても夫婦の会話が少なくなる。どうせ夫婦で話すようなことは他愛のないことばかりだけれど、会話がなければ相手の気持ちも悩みも分からない。絶対に共有しなければならないとは思わないけれど、なんでもないことから話題にすればいいと思う。
相手のことを知ろうとして、ケイタイを見ることは破局の前触れになるようだ。だからこそ、適当な距離があった方が円満にいくのだろう。何もかも知り尽くしていないと気がすまないというタイプの人もいるけれど、知らん顔をしていることも必要だ。そのバランスが夫婦というものの絶妙なところなのだろう。無関心であってはならないが、必要以上に入り込まれても困る。誠に勝手なものだが、長く夫婦を続けるためには大切なことなのだ。家族の形が夫婦とその子どもとなってまだ日が浅い。働く場所が工場とか会社とかになり、個人を必要とされたので、こういう夫婦と子どもの形が家庭となった。
農業も漁業も牧畜も、集団でしかできない。親、兄弟、親族が家族を作っていたし、その集落が共同生活の場であった。だから、必ずしもひとりの夫にひとりの妻ではなかったようだ。一夫一婦制を厳しく求めたのはキリスト教だけれど、キリスト教で異端とされた集団には愛することに自由なものもあった。日本は性に関しては真に開放的であったが、明治以後、西洋文化つまりキリスト教の影響でそのスタイルは一新した。それでも、祭りの時は「無礼講」と称して、不道徳を許していた。
これからどういう社会になっていくのかわからないけれど、絶対的なものはないことは確かであろう。夫婦の形や家族の形、したがって社会の形も必ず変わっていくだろう。日本は税金が高い、賃金が高い、だから企業は安い地域へ行ってしまうと言われている。地球が狭くなったのだから当然のことだ。けれどまた収まるところに収まるだろう。農業に適したところは農業を、工業に適したところは工業を。いびつなようでも結局は一番よい形に収まるだろう。そしてまた、矛盾が生まれ次へと移る。
人の暮らしはそんな風にいつも変化していく。
今日は語呂合わせで「いいふろ」の日だそうだ。先日は「いいふうふ」の日で、どういう夫婦がよいかをテレビが取り上げていた。1)はよく話し合う。2)を忘れたが、3)は適当な距離を置く。というものだった。30代や40代は働き盛りだからどうしても夫婦の会話が少なくなる。どうせ夫婦で話すようなことは他愛のないことばかりだけれど、会話がなければ相手の気持ちも悩みも分からない。絶対に共有しなければならないとは思わないけれど、なんでもないことから話題にすればいいと思う。
相手のことを知ろうとして、ケイタイを見ることは破局の前触れになるようだ。だからこそ、適当な距離があった方が円満にいくのだろう。何もかも知り尽くしていないと気がすまないというタイプの人もいるけれど、知らん顔をしていることも必要だ。そのバランスが夫婦というものの絶妙なところなのだろう。無関心であってはならないが、必要以上に入り込まれても困る。誠に勝手なものだが、長く夫婦を続けるためには大切なことなのだ。家族の形が夫婦とその子どもとなってまだ日が浅い。働く場所が工場とか会社とかになり、個人を必要とされたので、こういう夫婦と子どもの形が家庭となった。
農業も漁業も牧畜も、集団でしかできない。親、兄弟、親族が家族を作っていたし、その集落が共同生活の場であった。だから、必ずしもひとりの夫にひとりの妻ではなかったようだ。一夫一婦制を厳しく求めたのはキリスト教だけれど、キリスト教で異端とされた集団には愛することに自由なものもあった。日本は性に関しては真に開放的であったが、明治以後、西洋文化つまりキリスト教の影響でそのスタイルは一新した。それでも、祭りの時は「無礼講」と称して、不道徳を許していた。
これからどういう社会になっていくのかわからないけれど、絶対的なものはないことは確かであろう。夫婦の形や家族の形、したがって社会の形も必ず変わっていくだろう。日本は税金が高い、賃金が高い、だから企業は安い地域へ行ってしまうと言われている。地球が狭くなったのだから当然のことだ。けれどまた収まるところに収まるだろう。農業に適したところは農業を、工業に適したところは工業を。いびつなようでも結局は一番よい形に収まるだろう。そしてまた、矛盾が生まれ次へと移る。
人の暮らしはそんな風にいつも変化していく。