暑さが戻ってきた。空を見たら、青く澄んで、白い雲がいかにも夏らしく光っていた。風が強いのに日差しも強い。家から出る気にもなれないでいたら、幸いにも続けて来訪者があった。そして来訪者の合間を縫うように睡魔がやって来て、眠り込んでしまった。テレビはロンドンオリンピックでの日本人選手の活躍を報じている。金こそ少ないかも知れないが、こんなにも多様な種目で頑張っている人がいるのだと改めて思った。
昨日は広島への原爆投下の日であったが、オリンピックにかき消されてしまった。福島の原発事故の際の東電の対応について、その会議録ビデオを新聞は取り上げていたが、テレビの方はどうだったのだろう。野田内閣に対する野党の問責決議とか内閣不信任案とか、政治の世界も動きが大きくなってきているようだが、本当のところがよく分からない。民主党としては衆議院の任期満了までは解散したくないのだろうけれど、大臣の地位を放したくないとか議員でなくなるのがいやとか、そんな程度のことで職に留まっているのはやめてもらいたい。
先日、NHKテレビの記者から殺人事件の被害者の写真が欲しいと頼まれ、心当たりを探したという議員の話を聞いた。報道する側としてはニュースのインパクトを考えれば、被害者の顔写真が欲しいのは分かる。しかし、報道される側の遺族としては報じて欲しくはないだろう。議員としては「写真が報じられることで犯人逮捕につながると考えた」と言っていたけれど、私には報道関係者に貸しを作っておきたかったように見えた。
私は交通事故でも火事でも、新聞やテレビがなぜ大きく報じるのか分からない。ましてや殺人事件となるともっと興味本位な報道になっているような気がする。新聞やテレビが交通事故や火事などを報じるのは、その原因を確かめ、みんなに注意をしてもらうためだ。それならば、殺人事件をあんなに大きく報じるのは何のためなのだろう。強盗のようなことなら戸締りをしっかりしましょうとなるが、怨恨のような場合なら注意の仕方がない。
滋賀県大津市の中学生いじめ問題でもマスコミの報道が、いじめた子やその親に対して、「死んでしまえ」とか「殺してやる」といったメールや手紙を送りつける「いじめ」になっていると思う。子どもを自殺から助けられなかったことは事実だから、学校や教育委員会は責任を負わなくてはならない。いじめた子どもたちもその親も謙虚に事実を受け止めなくてはならないだろう。「いじめた」側をいじめるような事態は、マスコミがその役割を興味本位なところにおいているからに他ならない。
人は知ることで正しい判断ができるようになった。ところが今日では、どうでもいいような報道が溢れ、むしろ人の営みを興味本位な目で見るようになってきている。人の持っている“負の面”をことさら強調している。テレビで活躍するアスリートたちもこんな風に興味本位に報道さたのではたまらないだろう。報道するということはどういうことなのか、もう一度考えて欲しいと思う。