岐阜県美術館で今月26日まで、『象徴派展』が行なわれている。人間が表現してきたものは当然なことだけれど、その時代を反映している。人間の歴史が大きく変わったのは18世紀である。イギリスで産業革命が進み、フランスで王制を廃止する革命が起きた。要するに西洋で急速な社会変化が生まれた。産業革命が生まれるためには科学の進歩があったし、逆に産業革命によって科学はさらに飛躍した。学問の世界も様変わりしたと言ってもいいだろう。産業革命は労働者を生み出したが資本家も生んだし、小市民と呼ばれる人々も生んだ。
それまで王や僧侶、貴族や大商人が買い手であった絵画の世界にも市民が登場してくる。絵画のテーマや様式にも変化が生まれてくる。フランス革命の後は人間の営みをダイナミックに描くロマン派が生まれ、見たものを見たままに描こうとする写実派が生まれた。19世紀の初めに発明された写真は、画家たちに大きな衝撃を与えた。記録としての絵画の役割がなくなったのだ。人々は見えるものから人間の内面に関心が移っていった。
『象徴派展』の入り口近くに、画家のギュスターヴ・モローの言葉があった。「私は自分がふれるもの、自分に見えるものはまったく信じない。ただ自分に見えないもの、自分の感じるものだけを信ずる」。一見すると、近頃の政治家の言葉のようだけれど、モローは内面性を取り上げているのであって、政治家は厚顔でしかない。名古屋市の減税日本の市議が、視察に女性を同伴したことが明るみに出て「私的な視察だった」と弁明して旅行費用を返した。その同じ市議が今度は交通事故を起こして逃げた。減税日本の代表である河村市長は「自分で辞める以外ない」と言うが、候補者に担ぎ上げた責任をどう感じているのだろう。
公費は返してしまえば責任はないという感覚が実はおかしい。この地域選出の県議はオンブズマンから政務調査費の公開を求められたら、「政務調査費は全額返した」と開き直った。それはやましいことがある証拠だと思うけれど、こういう議員がいることが政治の貧困だと思う。この県議は年間の収支報告書も収入はゼロという。それでは日頃の政治活動にかかる費用はどこから出ているのだろう。事務所もあるし人も出入りしているのに不思議だ。政治家の基本は潔癖であることだが、選挙でこういう人を選んだ市民にも大きな責任がある。
人間とはいかなるものなのかと、人はずぅーと考えてきた。特に18世紀以降は科学の力で解明しようともしてきた。けれども未だに最も不可解なものが人間のようだ。「私は自分がふれるもの、自分に見えるものはまったく信じない。ただ自分に見えないもの、自分の感じるものだけを信ずる」。ギュスターヴ・モローが今日を見たならどう言うだろうか。19世紀の詩人や画家、哲学者や科学者たちは、21世紀を見たなら何と言うのだろう。