マンションの工事が終わり、我が家のルーフバルコニーに置かれた工事用の足場が昨日、撤去された。これでようやくバルコニーでのビアパーティーができる。一箇所に固めておいた植木鉢を移動して、また新たに庭造りをしなくてはならない。ひとりでは持ち上げることも出来ない大きな鉢をカミさんに手伝ってもらって動かし、後はひとりで何とかやれるだろう。そんな段取りで始めようとしたら、工事で汚れた場所をきれいにするのが先とカミさんに言われてしまった。
散水してデッキブラシで汚れを落とす。日陰での作業とはいえ、全身が汗まみれになる。午前9時過ぎ、高校野球の準決勝を見ようと作業を中断する。午後からは日差しがあるので、作業は後回しにして、ゴロリとなりながら読書する。そのうちウトウトと眠りにつく。30分ほど昼寝をした後、マンションの中で大和塾の次回の案内を配る。これまでに来ていただいた方に、次回の案内文の入った封書を郵便受けに入れていくのだが、結構時間もかかる。
エントランスホールで、80歳を越えた大和塾ファンの女性に出会った。「今度の方はどんなお話をされますの?」と聞かれる。「いつも楽しみなんです。いろんな方のお話が聞けるのは本当にいいことだわ」と言う。「ありがとうございます」とお礼を言い、「もし、こういう話が聞きたいとか、この人の話が聞きたいということがあれば、ぜひ、教えてください。私が交渉して来ますから」と答える。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を書いた加藤陽子さんは、この本を書いた理由を「はじめに」で述べている。その中に「小選挙区制下においては、投票に熱意を持ち、かつ人口的な集団として多数を占める世代の意見が突出して尊重される」として、「人口の2割を占める高齢者は真面目ですから投票率も高く、(略)確実な票をはじき出してくれる高齢者世代の世論や意見を、為政者は無視できない」とあった。私は逆説的に受け止め、ならば高齢者が正しく世界を見る目を持てば、世界は変わるのではないかと思った。
私たちが行なっている市民講座の受講生は圧倒的に高齢者が多い。かつての高齢者は情報が無かったために保守的にならざるを得なかったが、いろんな見方、いろんな考え方、そればかりかいろんな事象を知ることで、考える高齢者になることができる。年寄りになれば保守的になるけれど、少なくとも昔のような「衆」ではない、自立して考えられる「民」となるはずだ。大和塾の市民講座も単なる「教養」を越える域を築いていけるのではないだろうか。
政治家を見ても、雑誌や新聞などの評論家を見ても、世界中で若い人たちが目立ってきている。私たちのよう高齢者よりももっと保守的な考えや意見の人も見られる。危うさを感じながら、一方で真面目に物事を見つめている人も結構いる。私たちは事態を見守るとともに、私たちもまた発信していけるように、自らを鍛えていく必要があるだろう。老人パワーの方が理想主義でなおかつ建設的ということになるように。