盆と正月の年に2回親戚が集まる。正月は我が家に集まってもらうが、盆は私の家の墓に参りその後、みんなで会食をする。83歳の姉が一番上で、一番下は私の長女の3歳の娘だ。昨日は17人が集まった。姪っ子や甥っ子の子どもたちもすっかり大きくなって、お酒もよく飲めるようになった。残念なのは兄貴の子どものうち、下の夫婦が仕事の都合でこのところ参加できないことだ。彼は日展に彫刻の部で作品を出している芸術家だけれど、彫刻では生活ができないので商業作品を生業にしている。けれど、この不景気のために苦労しているようだ。飲むと饒舌になってとても面白い男なのに、近頃は一緒に飲めないからちょっと淋しい。
ふたりの甥っ子を見ていると、上の子はおっとりしたところが、下の子は夢中になるところが、死んだ兄貴にそっくりになってきた。私の家系には芸に親しむ血が流れているのか、上の甥っ子は公務員なのに、生け花を教えるほどだと言う。その息子も大学ではオーケストラに参加してバイオリンを担当している。強く自己主張をしないところは兄貴譲りだ。昨日、姉から聞いた話ではお爺さんの父親は大工で、お墓のある寺の山門はその人が建てたものらしい。私は子どもの頃、お爺さんの本家という家に連れて行ってもらったことがあるが農家だったから、分家をして大工になったと思っていたけれど、お爺さんの父親から大工だったのか、ちょっと合点できないでいる。
お爺さんは小町と言われたお婆さんと結婚して、私の父が生まれている。お婆さんは大工の棟梁のかみさんよりも役者の妻に憧れたと聞いたことがある。材木屋の物置小屋の1棟で機織りをしていた。映画が好きでよく一緒に連れて行ってもらった。この母親の血が濃かったのか、私の父は色白で面長の文学好きだった。お爺さんとは全く違っていた。そのせいなのか、父とお爺さんは仲が悪かった。お爺さんにしてみれば、自分の跡継ぎとなって欲しかっただろうけれど、父は小説家になる夢を追っていた。それでも父は晩年、材木屋の経営のために全ての退職金を注ぎ込んでいる。父にとっても材木屋の存続は大事なことだったのだろう。
その材木屋を潰してしまった兄貴は、一家離散の道を歩いた。甥っ子の上が6歳、下が4歳くらいの時だと思う。だからふたりは父親の印象が余りないと思うけれど、上の子に聞くと、「覚えていますよ」と言う。「母子家庭でイヤじゃーなかったか」と聞いても、「そんなことは意識しなかった」と答える。本当にそうだったかよりも、立派に生きてきたのだと感心した。甥っ子の下の子は子どもの頃から元気がよかったけれど、見栄っ張りなところもあったから、不景気で活躍の場がなくなっている今は余りみんなの前に出たくないのかも知れない。
ふたりとも父親のことをどれほど覚えているのか知らないけれど、父親の年齢に近づいてきて、ますます父親に似てくる。それだけに無意識のうちに父親を越えようとするのかも知れない。姪っ子の子どもは3人とも男の子だけれど、やはり父親に似ている部分がある。男の子は父親を意識して乗り越えていきたいと思っていると私は考えているが、なかなか難しい永遠の課題なのかも知れない。