「同じ水を飲み、同じものを食べているのに、子どもが何を考えているのかよく分からない」と親は言う。名古屋で父親とふたりで暮らしていた青年が、小学生の女の子を誘拐し、警察がその部屋に踏み込んだところ、居間で父親が死んでいた事件があった。逮捕された青年は、「女の子の監禁が発覚するのを恐れた」ために、首を絞め、さらに木刀で殴り殺したらしい。子どもが犯罪を犯すあるいは犯そうとしているのに、咎めない親はいないだろう。子どもが犯罪者になればその将来にバラは咲かない、だから子どものために必死になって止めるのは当然だ。
殺されてしまった父親はさぞ無念だろう。どうして息子の気持ちをもっと理解してやらなかったのかと、悔やんでいることだろう。父親は厳しい人だったと父親の同僚が話していた。よくは分からないけれど、両親が離婚して、青年は初め母親と暮らしていたけれど、父親と暮らすようになったようだ。男同士がマンションの1室、ひとつの家で暮らしてきたのだから、互いを理解し合う機会も多かったはずだが、逆にうっとうしくて重たかったのかも知れない。
親子なのだから、何でも分かり合えるかといえば、年齢の差は大きいと思う。親だから子どものことは何でも分かっていると言う親は、ただそのつもりでいるということだろう。錯覚というか、そう思いたいのだ。子どもはもっと親のことは分からない。親の年齢になってみて、父親があるいは母親が、言っていたことはこういうことだったのかと、ぼんやりと分かる時もある。親の方は自分の経験から、子どもがこんなことを考えているはずだと推察するが、年代が違えば経験が違うから、子どもの心の中までは見通せないだろう。
人はある意味で、自分の心もよく分からない。だからこそ、自分を理解してくれる人、自分を受け入れてくれる人、そういう人に出会いたいと必死に思う。子どもが親元を離れていくのも、そういう人に出会いたい、あるいは出会ったと思ったからだろう。それを多くの人は結婚という形で行う。寄り添うというのは、お互いが、自分を理解して欲しい、受け入れて欲しい、という願いの形なのだ。根本的には一方的な願望だけれど、双方が同じ願望を持っているのに、何年も「同じ水を飲み、同じものを食べても」しっくりと「腑に落ちる」ことはないようだ。
人間はとても厄介な生き物だと思う。親子だから、夫婦だから、兄弟姉妹だから、それだけで何もかも分かり合えることはあり得ない。分かり合えないから、より分かり合える人と出会いたいと願うのだろう。国会は今日で実質は終わった。結局、何も分かり合うことはなかった。いや、分かっているが故に、行き違ってきているのかも知れない。