文部省は全国の小・中・高の学校で昨年、7万件のいじめがあったと発表した。調査は都道府県によってばらつきがあるというから、実態はもっと深刻ということだろう。どのような方法で調査したのか分からないけれど、学校によってのばらつきは大きいはずだ。それにしても、自殺した小中高高生が200人もいたことには驚いた。中日新聞には32歳の男性が、「ニュースを聞くたびに、いじめの記憶が甦る」と言い、「いじめの傷は癒えていない」と語っていた。
いじめられた方は、ずぅーと心の傷になっているのに、いじめた方はとっくの昔に忘れてしまっている。それがなんとも悔しいしが、そんなことだったのかと思うと、馬鹿らしい気持ちになった。私は小学校4年の時にいじめられた思い出がある。それが私の出発点だった。小学校6年の卒業文集に、友は「はげましあい、卒業の岸にたどりついた。ここまで導きくださった諸先生に、感謝をささげ、さあ ゆこう」と希望に満ちた文章を書いている。ところが私の文章はいじめ克服の決意しか書いていない。
「あー、意志の弱かった自分がにくらしい。こういう悪童は何人でもいる。だからこういう者をなくすとどうじに反抗できる強い意志が必要だ。どんな苦難にも打ち勝つのは強い意志だ。私は意志が弱かったため数多くの苦難に負けてしまったがただ1回だけ、クラーク先生の言葉を思い出して自分の行いを反省してみて、災難に負けずにすみました。何事にも強い、強い意志が必要なのです。強い意志をもて、強い意志を。少年よ、大志をいだけ」
中学生の私は、小学校の時の私とは決別した私でした。小学校4年の時に、宿題をやらされたり絵画コンクールの作品を描かされた悪童と同じ中学校だったけれど、彼がどこにいるの?と思うくらいで、私の方が学校で目立っていた。だから逆に、私はいじめた側にいなかったのかと心配している。中学1年の時、国語の先生が「君たちはもう大人だ。父ちゃん、母ちゃんなんて言うな。大人として生きていけ」と言ったことで、私は自分を大人になったと言い聞かせてきた。中学生や高校生はもう大人だ。だから高校でもいじめがあるということが理解できない。
先に読んだ綿矢さんの『勝手にふるえてろ』の主人公の女性が憧れる男の子は中学の時、「男子も女子もみんなが彼をかまいたがった。彼は人気者でも(勉強や運動ができて)モテる子とはちがって、うちのクラスのペット的な存在だった」。彼女は彼が「素敵な男だから」周りがじゃれ付いていると思っている。ところが彼は、「おれなんか中学時代はいじめられてる思い出しかない」と言う。彼女は、「うそ、ちがうよ。みんなはかまってほしくて意地悪しただけ」と大人になった今でもそう思っている。
彼女にはそんな風に見えていたけれど、じゃれ合っているようでも、されている方は耐えられないほどの苦痛なのだ。人は誰でも仮面を被っている。仮面が小さい人もいるし、仮面が全く別のもののような人もいる。素顔だけでは生きていけないから、それは知恵であるけれど、素直に馬鹿正直なほどさらけ出している人もいる。生き方はそれぞれに違うから、いわば個性である。だから、どう生きていくか、人はいつも無意識に考えているのだろう。