生まれ故郷の寺で、墓石を撤去するための法要をしていただいた。墓石が傾いてきて気にはなっていたが、自分が決断することもはばかられて、ズルズルと後回しにしてきた。故郷に居る叔母から電話をもらってウヤムヤした気持ちが吹っ飛んだ。叔母は「後に残された者が困らないようにしている」と自分のことを話されたのだが、私は「そうだ。誰かが決めなければならない」と思い、墓石の整理は私がやるしかないと決意した。
叔母にも了解してもらい、今日、そのための法要をしていただいた。父のすぐ下の叔母とその娘と息子、そして電話をくれた叔母とその娘、姉の娘とその夫が参列してくれた。一番上の叔母が亡くなった時、葬儀で出会ったが誰かも分からないまま別れてしまったので、親しく話をしたのは60年ぶりくらいではないだろうか。祖母が亡くなったのは小5年か小6年の時で、それからはいとこが我が家に集まることがなくなってしまった。
わが家は材木屋だが、叔母たちはサラリーマンの妻だったから、実家にはよく子どもを連れて来ていた。正月前の餅つきやお盆は特に賑やかだった。いとこたちの中では私が年上だったので、一緒に遊んだりして面倒をみていた。今日、「何歳になったの?」と聞かれて、「72だよ」と答えると、「えっ、そんなに違わなかったの!もっと上だと思っていた」と言う。「遊んでいたのは小学校の時だから、そんなものじゃーない。小さい時は1学年違うだけで大人に見えたから。やっぱりみんな歳をとったわね」とも言う。
電話をくれた叔母のひとり娘は私とは同じ中学校の卒業で、私が高校生の時、私の担任が卒業生を囲む会を計画し、その席で「お前のいとこは南中一の美人だな」と彼女のことを褒めていた。60代の今もまだまだ美人だ。もうひとりのいとこが「娘がもらってきた同窓会誌にご両親のことを書いた記事があったわよ」と教えてくれたがもう、私は記憶がない。祖母や母が「この山門(写真)はおじいさんが建てた」とよく言っていたことが誇らしく思えた。