「台風が接近」とテレビで報じていたが、朝は余りに穏やかな空だったので、「東海地方は関係ないのか」とさえ思ってしまった。カミさんは朝5時に起きて、「雨の中のプレーはイヤだ」と言いながらゴルフ大会に出かけて行った。私は洗濯物を干した後、無風で蒸し暑いルーフバルコニーに出て、台風に備えて排水口の掃除をする。見ごろになったバラを切り取り、花瓶のバラと入れ替える。
今晩も熱帯夜になると予報されていたので、エアコンの掃除をする。家事を一通り終え、12日に延期した高校新聞部のOB会に持って行く資料を引っ張り出してみる。私の過去の物では、大学時代のものが一番少ない。教育実習に行った時の記録ノートはあるが、卒業制作の作品は1つも残っていない。搬入はしたが、撤去した時はどうしたのだろう。高校の教員になった時、科長だった先生から「卒展を見て、あなたに決めた」と言っていただいたのに。
私は大学4年の大半を東京で働いていた。「出版社で働きたい」と言う私の希望を活かすため指導教官が行ってくれた配慮だったが、「この上司の下では働けない」と12月末で引き上げて来た。暮らす場所がなかったので、姉のところに居候させてもらい、そこで卒業論文と制作に没頭した。3月に同級生は次々と赴任校が決まっていくのに、何の連絡もなく焦った。春分が過ぎ、もうダメかと思った時に赴任校の通知が来た。
「65歳までは働いて、そうしたら我が家を開放して、誰が来て、何をしてもいい、そんな家にしたい」と地域新聞を受け継いでくれたかつての部下が言う。創刊5年目の時、ひとりでは手が回らなくなり、集金係を雇ったばかりの時に若い女性を紹介された。彼女はパソコンが出来たから、私の夢は一気に広がり、大学の公開講座、プロボクシングチャンピオンの祝勝会、美術館や名所巡り、冊子の発行などが実現できた。
20年前、後を継いでくれた時は30代だったのに、そんなことを考えるよう歳になっていた。どこでどう人生は変わるとしても、その人の人生はその人でしか生きられない。高校新聞部の連中も、思えば皆それらしい人生を歩んで来ている。午後6時過ぎ、カミさんたちはまだ帰って来ない。