家庭内暴力は、男が女にあるいは親が子に、力のある者がない側に振り落とす暴力である。される側は耐え偲ぶしかないから、振るう側はますます図に乗る。テロやゲリラは逆に、力の無い方が力のある方に挑む戦いだが、報復を恐れて身を隠す。
それでも圧倒的な力が相手にあれば、あぶり出されて鎮圧されてしまう。力のある側が、もう少し思慮深く思いやりがあれば、諍いも減り、感謝と慈愛に包まれるだろう。余裕のある側に優しさがあるなら、不満や恨みも解消されるだろう。
人はなかなか「許す」ことが出来ない。妬みや恨みの原因を相手に求めてしまうから、ぶっ潰してしまいたいと思う。学生運動が盛んだった時、セクトの対立は殺し合いにまで至った。同じ夢を追った同志なのに、なぜ殺し合うまでに憎み合ったのだろう。
ウクライナの大統領がウクライナの人々に、ロシア軍との徹底抗戦を呼びかけていた。もし私が大統領なら、ロシア軍に対して全面降伏するからウクライナ人に手を出すなと通告し、自ら白旗を掲げて国民を守るだろう。
戦闘が続けば必ず両方に死者が出る。死者を出して、いったい誰が得をするのか。力のある者は無い者に暴力を振るうが、反抗するより今は耐えるしかない。やがて力のある者への非難が高まれば、己の愚かさに気が付くかも知れない。
たとえ気付かなくても、いつまでも強者ではいられない。力のバランスが変わる時が必ずくる。その時同じように力に頼るなら、立場が変わっただけだ。内側から自分を変えていく、それが成長であると私は信じる。