友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

だからゴメン

2007年03月09日 23時06分45秒 | Weblog
 カミさんは日曜日の夜中に38度6分の熱を出した。それでも翌日からの仕事は休まずに出かけている。月曜日に医者に連れて行ったのが良かったのだと思う。仕事から帰ると疲れたのか、床に入って一眠りする日が続いた。昨夜は友だちとの会食の約束があったので、床につくこともなく出かけて行った。車で行ったからお酒を飲むこともできず、遅くなることもなく帰ってきた。昔の仲間とワイワイとおしゃべりをすることは楽しい。続いていた風邪模様も吹っ飛んだのかも知れない。

 私は学生の時、そして就職して結婚するまでの間、一人暮らしの期間があったから、食事を作ったり、掃除や洗濯をしたりすることは苦ではない。さすがに買い物は今も苦手だが、特に料理は好きだ。カミさんが風邪気味なので、昨日までは毎晩、食事を作った。冷蔵庫にあるものを適当にナベに入れて煮てしまえば、煮物はできる。孫が「おいしい!」と言ってくれれば、当たりである。孫は酒のつまみになるようなものが好きで、彼女の評価は正しいと私は思っている。

 失職していた時、「主夫業に徹するぞ」と決めて主婦業をやっていた時がある。掃除をし、洗濯をし、料理をして、家族の帰りを待つのだ。初めのうちは張り切ってやっていたが、そのうちにだんだん空しくなった。どんなにキレイにしておいても、どんなにおいしい料理を作っても、誰も評価しない。当たり前のことだから誰も何も言わないのだ。主婦の寂しさがよくわかった。人間は社会で評価されるようにできている。そこに喜びがある。テレビに、人は映ってはいるが話しかけてはこない。人と話がしたい、自分の思いを伝え、相手の考えを聞きたい。その思いが強くなって、「主夫業」をやめた。

 今日は「花だん」の日で、孫と一緒のテレビを見なくてはいけないのだが、テレビの前ではカミさんが真剣な表情で見入っている。実はここだけの話だが、彼女はかなりミーハーである。娘が中学時代にマンガに取り付かれていた時、やはり徹夜してそのマンガを読んでいたし、パソコンを勝った時は徹夜でゲームをしていた。根が真面目なのだと思う。私は冷めてしまっているが、彼女にはとことんやらなければ気がすまない情熱がみなぎっているのだ。エライ人だなと感心する。

 若い女性から「奥さんは大変苦労されたのですね」と、言われてビックとした。どうしてその女性がそう思ったのか定かではないが、ウチのカミさんが苦労をしたことは確かであろう。教員同士で普通の生活をしていたはずなのに、とんでもない人生を歩かされたのだから、苦労がないはずは無い。彼女がやってこられたのは、彼女のおおらかさにある。ものごとにこだわらない鷹揚さにある。でも多分、そうしなければ生きてこられなかったこと故の彼女の智恵であるように思う。私が先に死ぬことで、彼女を解放してあげたいと願っているのだが、この先のことはわからない。わからなくてもいいんじゃないか、どのような結末でも大差は無いと思う。だからゴメン。

 向こうの部屋で、孫が「ナニ!ムカツク」と叫んでいる。『花だん』が終わったのだろう。また孫からひとしきり道明寺のことを聞かされそうだ。カミさんはと見ると、もう床に入っていた。
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どんな人生を選ぶのか

2007年03月08日 23時57分37秒 | Weblog
長女は不思議な子である。
幼い時は一人でぶつぶつと言いながら自分だけの世界に陶酔していた。こんなにも一人遊びができるものなのかと感心した。小学校では、低学年の時は給食が食べられなくて一人残され食べさせられたという。中学年の時はいつもごろんごろんしていたように思う。どこか身体でも悪いのではないかと思ったくらいだ。

 それが高校では陸上部に入った。たまたま中学校の体育大会の100メートル走で速かったのだ。今もその記録は破られていない。普通高校だったから当然大学へ進学するものだと思っていたら、専門学校へ行くと言う。しかも3年生でありながらアルバイトに精を出していた。就職してそんなに経たないうちに結婚すると言い、すぐに出産となった。そればかりか子育ての真最中だというのに、仕事を休んで4年間大学へ通った。そして復職したのに今度は専門職の資格を取るために半年間広島へ行ってしまった。孫は私たちが育てているが、毎日母親とメール交換している。

 全国でも何人というエリートとなる資格で、かなりの難関であるらしい。昨夜、孫のところに「心臓が痛くて、もうだめ。」とメールを送ってきた。かなり参っている様子だ。実習は良い成績だったらしいが、学科試験の方は簡単にはいかなかったようだ。寝食を忘れて頑張ったようだが、ペーパーテストは結果がハッキリと出る。「そりゃーママ死んでしまうかもしれないね」と冗談っぽく言うと、孫は真剣な顔で「そんなふうに死ぬなんてことを簡単に使うものじゃーないよ。パパちゃんだって、死ぬといわれたらどうするの」と怒られてしまった。

 孫は母親を絶対視している。母親くらいすごい人はこの世にはいないと思っている。仕事もできるし、運動もできるし、上司との付き合いも上手にできる。あなたのお母さんはちょっと変わった人であるけれど、そんなにすごい人でもなければ、特別な人でもないよと、言ってやりたいところだが、たとえそう言ったところで孫は、私の言葉は信じないだろう。それでよいと思う。これだけわが子から信頼されている母親はこの世の中にはいないだろう。その信頼をぶち壊すようなことをする必要はない。

 孔子は「先ず行う。その言や、しかるのちにこれに従わん」と言った。また、「成事は説かず。遂事は諌めず。既往は咎めず」とも言った。一生懸命に努力したことが大事であって、その結果は受け止めなくてはならないが、そのことでクヨクヨすることはないと孔子は言っているのだ。紀元前4百年も前の人の言葉である。長女が何を目指し、そのためにどのような努力と犠牲を払ったのか、正確なところは知らないが、人生は長いし、いつでも再チャレンジできる社会を目指すと安倍総理も言っていることだから(本当はどうなのかは知らない)、また機会があれば何かにチャレンジすればよいと思う。

 人生は一度しかないけれど、一度しかないからこそこの道しかないと考えずに、いろいろと自分を試してみれば良いと思う。人はいつも自分が選択している。自分が思うことを、欲することを、やってみればよい。その結果は、自分が選択したことなのだから、当然ながら自分が負うことになる。慎重に生きることも人生。やってみようと生きることも人生。どちらも自分の人生であることには間違いない。
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島国根性との決別

2007年03月07日 22時17分54秒 | Weblog
 小学生と時は、おとなしいだけで「積極性に欠ける」と常に通知表に書かれていた子どもだったけれど、小学校の高学年になって、自己改造に取り組むことになる事件が続いた。一つは3月3日のブログに書いた「ストライキ事件」であり、もう一つは祖母の葬儀だった。

 私の家は材木業であったが、長男の父は家業を継がずに教員となった。だから祖父は父を嫌っていた。祖父は父の弟に跡継ぎをされるつもりでいたが、先の大戦で戦死してしまった。そこで人の良い兄が継ぐことになった。大学受験に失敗し浪人中だった兄とともに、私たちも材木屋に引っ越した。兄は祖父母のいる母屋に、私たちは奥の倉庫を改造したところに住んだ。電気と便所はあったけれど、水はなく、食事と風呂は母屋でいただいた。

 母は、寝起きしていた倉庫の一角を教室にして、裁縫を教えていた。昼間も夜間もたくさんの若い娘さんが通ってきていた。母と祖父母はあまり口を利かなかった。祖母はきれいな人だった。よく映画に連れて行ってくれた。午後3時には、職人さんたちにおやつを出すので、私と妹も一緒にいただいた。私はおばあちゃん子ではなかったし、祖母も格別にかわいがってくれたわけではなかった。9月15日を「敬老の日」と意識できるようになった時、町で一番おいしいと言われていたお菓子屋まで行って、名物の最中を買って祖父母に差し上げたことがある。

 祖母が亡くなった時、別に哀しいという気持ちなかった。葬儀は自宅で行われた。葬式を仕切るのは隣組の人たちである。台所では近所のおばさんたちが集まって食事の用意をした。買い物は全て通帳で行われていた。ここはまるでお祭りのようににぎやかだった。祖母が亡くなったというのに、涙を流す者はなく、時には笑い声さえするほど活き活きとしていた。どうしてなのか、人が死んだのになぜお祭りのようにウキウキしているのか。おかしい。日本人はおかしい。日本の宗教はおかしい。私は祖母の死よりも、葬儀がこんな風に行われることが無性に腹立たしかった。

 私は、戦争で負けたのも、日本人が死を厳粛に受け止められないのも、根は同じだと思った。これは日本人の島国根性のせいだ。自分はこういう日本人にはなってはいけないと決意した。日本人の小説は読まない。父が「中国の偉い人は、敵を知らなくては戦には勝てない」と言っていたので、西洋の小説を読もうと思った。学校の図書室で見つけたストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』を読んでビックリした。日本人とは全く違う生き方をしている。トムの心の支えとなっている『聖書』をぜひ読みたいと思った。このことを読書感想文に書いたところ、コンクールで入賞した。それがさらにキリスト教への関心を高めた。

 大人になる決意のための心の準備は整った。
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アゴタ・クリフトフの「悪童日記」

2007年03月06日 21時54分19秒 | Weblog
 アゴタ・クリフトフの『悪童日記』を読み終えた。
1月に、78歳になる友人から、「この本は面白いわよ」と盛んに言われた。なぜ、どうして面白いと思われたのか、詳しく聞く時間がなかった。「私が預かって読んでみます」と言って借りてきた。最初は4冊も一度に借りて読めるだろうかと思った。一番初めに出版された『悪童日記』がなくて、その次からの4冊だったので、最も新しい作品から読んでいこうと決めた。そうすれば作者の原点にたどり着けるのではないかと考えたのだ。この方法は正しかったと思う。

 アゴタ・クリフトフは、1935年にハンガリーで生まれている。彼女の母国はナチスドイツの支配下にあり、第2次大戦後はソ連圏に組み込まれた。ドイツ軍がソ連軍に追われていく様子を彼女は9歳か10歳で見ていたはずだ。ハンガリー動乱が起きたのは1956年、21歳時だ。この時、彼女はすでに結婚し子どもがいた。夫だった高校教師は反体制家だったので、一家は弾圧を逃れて国境を越えた。そしてたどり着いたスイスでの過酷な生活。10歳から25歳くらいまでの見聞が彼女の小説のモチーフとなっている。

 4冊も抱え込んだのに、確かに「すぐ読め」た。文字数の問題というより、展開が早いのだと思う。翻訳者は全て堀茂樹さんという人だが、この人の訳がよいのかも知れない。文節がとても短いのだ。私は自分が地域新聞を作るようになって、文章をできるだけ短く書くことに努めた。短く文を書くことは容易いようだが、それで内容がわかるように伝えなくてはならないので、じつは訓練がいる。短い文なら読者は先へ先へと読んでくれる。

 私は学生の頃、高橋和巳という小説家が好きで、彼のような長々しい文章に憧れた。長々しい文章は重厚な気がしたのだ。しかし、読んでいくとどこで始まったのか、どこがどうなのか、わからなくなり、再度読み返さなくてはならない。小説のスタイルとしては面白かったけれど、新聞のような「報道」では、客観性と正確性が大事なので、どうしても簡潔な文章にならざるを得ない。

 アゴタ・クリフトフの作品は簡潔でわかりやすい。確かに一気に読めてしまう。彼女が作品を通して何が言いたかったのか、実はまだよくつかめていない。戦争の悲惨さなのか、人が生きることのしたたかさなのか、哀れなのか、たとえどのようなことであれ、私は大いに触発された。私は彼女のような小説家にはなれないかも知れないが、彼女が生きてきた時代を物語ったように、自分の生涯で見たことを語ることはできるかも知れない。そんな希望を与えてくれた。
 物書き志望の友人にもぜひ読んで欲しい作品である。
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憎まれっ子世にはばかる

2007年03月05日 23時30分58秒 | Weblog
昨日は暑いと言ってもよいほどの陽気だった。名古屋ではゴールデンウィークと同じ22度5分だったという。半そで姿の人を見かけた。

ところが今日は朝から雨が降り、風も強かった。それでも本格的な寒さが来ないままにすっかり春である。おかしなことばかり続くと思っていたら、ウチのカミさんが昨夜、真夜中に起きだして何やらゴソゴソやりだした。

「どうしたの?」と聞くと、「熱がある」と言う。冷蔵庫の氷を氷嚢に詰めている。また孫が熱を出したのかと思い、「ちゃんと計ってからしないと逆に風邪引いちゃうよ」と言う。「寒気がして体の震えが止まらない。計ったら38度6分あった」と少しイライラして言う。孫ではなくカミさんが熱を出したのかと知る。

昨日は孫を連れて、高島屋で企画展を見など、あちらこちらと動き回っていたのにである。「鬼の霍乱」ならぬ「カミの錯乱」である。ただの風邪とかインフルエンザならよいが、とんでもないような病気だったらなどと余計な妄想に取り付かれた。今朝は平熱に戻ったからと仕事に出掛けて行ったが、その責任感はたいしたものである。それでも念のためにと、仕事から帰るのを待って医者のところに連れて行った。

 「ただの風邪のよう」と言うのでまずは一安心である。私たちのように還暦を過ぎた年寄りはどこからガタが来るかわからない。身体は確実に疲労を重ねている。機械ならポンコツになってきている。私自身はやりたいことをやってきたのであまりこの世に未練はないが、カミさんは私の犠牲となって生きてきたから恨みは多いはずだ。そんなことを思うと、まだまだ死ぬようなことはないだろうと思い至り、安心した。

 「社会に貢献している人は長生きする」と誰かが書いていたが、そういう面はあるかもしれないが、恨みであれ、やり甲斐であれ、生きようとする意欲の高い人は長生きすると思う。そういう意味では、私はあと一つくらい何か面白いことができれば本当に思い残すことはないなあーなどと思っている。これは危ないかもしれない。欲を出して、「憎まれっ子世にはばかる」方がいいのかもしれない。
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国際交流マインド

2007年03月04日 23時04分29秒 | Weblog
 今日は「国際交流マイインド」の総会。総会といいながら、集まったのは8人に過ぎない。会員そのものは20数名いるが、実際に動ける人はこれだけである。それが悪いとか、それでどうした?ということは全くない。すごく盛況な時もあったけれど、このところはこのくらいでなんとかやってきた。グループというものはそんなものだ。人数が多くなれば分裂するし、少なければお互いに負担を押し付け合う。

 私がマインドにかかわりあうことになったのは、発足に当たって手助けしたことから始まる。その後は順調だったので、会費だけのユウレイ会員だった。大きくなっていった時、会員の中で考え方の違いが出てきて相談は受けたが、ユウレイ会員の私はただ聞くだけだった。何年か経て、総会に出てくれないかと電話があった。予定もなかったので出てみてビックリした。かつての勢いはなく、数名の方での運営になっていた。これは何とかしなくてはならないという思いでかかわるようになった。

 私も海外旅行で外国を見て、知らない国を訪ねてみることがどんなに大切かを知った。アメリカに行った時、その大きさに驚かされたし、田舎だったこともあって人々がとても人なつこくって親切なのに感激した。韓国でホームステイをさせていただいた時、人の情の深さを知った。人を知ることは平和につながると実感した。私が地域新聞を始めたのも、人を知り合うことが地域の輪となり力となると考えたからだ。外国もまた同じことだと痛感したことから、国際交流に尽くそうと思った。

 近々行政が国際交流の組織を立ち上げる考えであるという。マインドはどうかかわるのかという提起があった。行政の考えがわからないのにどうするのかは考えられないのではないかと私は思ったが、皆さんは行政がやってくれるならばその方が活動の幅が広がると、前向きであった。現状からすればマインドは限界にきている。行政に乗っかって行くことの方が現実的であろう。さらばマインド!
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戦う覚悟

2007年03月03日 17時09分45秒 | Weblog
 小6の孫娘のクラスは卒業を前にしてなんだか大変そうである。
音楽の先生はまだ若い講師で、男の子たちは言うことを聞かないようだ。男の子たちもだんだんと年頃になってきたのだろう。私の小5の時の「ストライキ事件」(3月2日のブログに掲載)も、若い担任への「恋心」のようなものが底辺にあったと思う。若い担任は、女性であるために男子と話すよりも女子と話すことの方が多かった。本当はそうではなかったのかもしれないが、男子にはそのように写っていた。担任に嫌がらせをしようというよりも、自分たちの方を向いて欲しい気持ちがあんな行動になってしまったと思う。

 若い担任は独身だったから、自分たちの母親にはない「女らしさ」があった。唇は赤く、胸が大きかった。いつも甘いにおいがしていた。男の子たちの中に「恋心」が芽生えていてもおかしくなかった。60歳近くなってからのクラス会で私は、事件の要因として恋心説を披露したが、どうも積極的な賛同者はいなかった。あまりよく覚えていない者も数多くいてガッカリした。私にとってはこの事件は大人への原点だったが、そんなことを考える同調者はいないのだ。

 子どもは残酷なものだ。社会のルールがまだよくわかっていない。行為の結果がどういうものか、理解していない。だから時々凶暴な事件が起きてしまう。クラスの中の誰かが、音楽の先生をからかう。みんなが面白がって笑う。子どもは仲間の受けが一番気持ちよい。ますますエスカレートして、みんなもますます面白がる。子どもは子どもの仲間の「受け」があるから、先生や大人をからかったり、いじめたり、逆らったりできる。子どものこうした行為が、子どもの誰からも「受け」なくて、孤立してしまうなら、子どもは「受ける」ためにさらに行為をエスカレートさせるか、孤立を恐れて何もしなくなるか、どちらかになるだろう。ましてや、子どもの中から、「止めなさい」と言われるようなことになれば、シュンとして「ヤル気」を失うだろう。

 子どもはなかなか仲間を制止できない。正義感を発揮すれば悪いことをして面白がり、仲間の「受け」を狙っている連中と戦う覚悟が要る。私は中学生になった時、自己改造は終わりかけていたが、さらに完成させるために「戦う覚悟」を決意した。
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子どもから大人になった日

2007年03月02日 23時04分04秒 | Weblog
 小学校5年生の担任は若い女性だった。優しい声がよく響く美しい人だった。明るくて溌剌としていて、見ているだけでもうっとりとするような先生だった。クラスはとてもよくまとまっていた。

 4年生のクラスのボスはイヤな奴だった。プロレスごっこが好きで、授業後は決まって何人かが残って相手をさせられた。なぜ何か、私も決まって残された。彼は身体も大きく、彼の家にはテレビがあったのか、プロレスの技もよく知っていた。この放課後の遊びが大嫌いだったのに、イヤとは言えなかった。私は級長だったけれど、級長の役目は全く果たしていなかった。おとなしくて、先生に当てられるのもできるだけ避けていた。写生大会があった時、ボスが自分の画用紙を私に渡して「絵を描いておけ」と言った。私は従った。ボスの絵を仕上げ、自分の絵に取り掛かった時はもう時間が少な過ぎた。ボスの絵は入賞したが、私の絵は佳作にもならなかった。通知表には毎年、「もう少し積極性が欲しい」と書かれていた。

 5年生のクラスのボスは、みんなが一目置いていた。公平だったし、思いやりもあった。クラスの雰囲気は4年の時とはガラリと変っていた。1学期が始まってまだ間のない初夏になる前だった。クラスの男子のほとんどが朝早く登校し、校庭の北側にあった池で遊んでいた。始業を告げる予鈴が鳴った。魚とりに夢中になっていて、「授業が始まるぞ!」と声を上げる者がいなかった。その代わりに「一時間目は休んで、公園へ行こう」と言う声が上がった。「今日はストライキだ」とか「サボって先生を困らせよう」と言う声も上がった。「校内にいたら見つかってしまうから」と、ひとまず学校の隣にあった公園へ行くことになった。公園には小川があり、もっと大きな池もあった。たくさんの生き物がいた。どのように捕まえるかを巡っていろいろな案が出された。授業のことなどもうすっかり忘れて、魚を追う係り、すくい上げる係り、指示をする係りなど分担ができ、さらにチームワークはよくなった。

 しばらくすると、2時間目か3時間目の授業を告げる鐘が聞こえた。「そろそろ帰った方がいいよ」と言う意見と、「『今日はストライキ』と決めたのだから学校へは帰らない」と言う意見とに分かれた。「ここにいたら捕まるから、もっと遠くに逃げた方がいい」と言う者がいて、「それならこの向こうにある、昔の国境の川まで行こう」ということになった。公園で捕まえた獲物をもとに戻し、戦に行く兵士のように、ストライキをしていた会社の社員のように、隊列を組んで目的の川へと歩いた。クラスの男子のほとんどが校庭の池にはいたはずなのに、公園へは行かなかった子が何人かいた。公園で良いチームワークで魚を捕っていた時も何人かが学校へ戻って行った。隊列を組んで歩いているのは、男子の半分ほどしかいない。「今日はストライキだと言って、みんなに公園へ行った方がいい」と言った子もいつの間にかいない。ボスはリーダーとしてみんなの先頭に立っていた。私はボスに従ってその何人かの後を歩いていた。

 「このままでは捕まってしまうから、もっと上流へ行こう」と誰かが言った。私たちがさらに上流に向かって歩いていくと、「オーイ」と後で呼ぶ声がした。教頭が自転車で走ってきた。私たちは学校へ戻った。校長室の隣の部屋に入った。担任の若い女性の先生は泣いていた。きれいな顔がゆがんでしまい可哀想だった。校長が何か言った。教頭も何か言った。担任の先生も多分何か話した。でも何も覚えていない。他の学校の校長だった父親が美しい担任にそれから何日か経って謝っていたが、それがどこでどのように行われたのか全く覚えていない。

 2学期が始まると、クラスのボスは大阪へ転校していなかった。私はいつまでもおとなしい子ではいけないと感じていた。裏切り者は必ずいる。みんなで決めたことを守らない奴がいる。自分はみんなを守らなくてはならない。みんなを守ったボスはいなくなった。これからは自分がその役目を果たさなくてはならない。私は自分を改造することに決めた。
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6年生を送る会

2007年03月01日 23時57分01秒 | Weblog
 今日は孫の小学校で、児童会が行う「6年生を送る会」がありました。出かけていくのはちょっと気が引けたのですが、両親が出られないのだから、せめて私が行くべきかと思い直して行って来ました。卒業式の雰囲気とはまた違って、在校生が全員揃って6年生にお別れをするこのやり方も、興味深いなと思いながら見させてもらいました。

 5年生の呼びかけで、壇上から6年生が一人ひとり降りてくる演出もシャレていました。ただ、6年生は120人ほどいますからちょっと時間がかかりました。この後、6年生が入学してからの6年間がスライドで上映されたのですが、多分6年生の人たちは面白かったのかも知れませんが、知らない人のアルバムを見ていても面白くないように、他の学年の子どもたちには少し長すぎたようにも思いました。6年生の前児童会長は女の子でしたが、とてもしっかりした挨拶でした。また5年生の現児童会長の女の子の挨拶も立派でした。小学校ではやはり女の子の方がしっかりしていることを見せつけられました。

 この後は、6年生と在校生がそれぞれに歌を披露しました。孫娘はこの時のピアノ演奏のオーデションに挑戦したのですが、残念ながら合格できませんでした。孫娘は、両親と私たち祖父母の期待を一身に受けて、それはそれはよく練習していました。オーデションを受けた子は3人でしたが、演奏する曲は2曲ですから、このうちの一人が涙を流さなくてはなりません。この前にあった音楽集会でのピアノ伴奏もオーデションとなり、孫娘は落選していますから、今回はなんとしても合格したいという思いで、必死に練習したのだと思います。それは多分他の二人も同じです。合格する人がいれば必ず不合格になる人がいます。孫娘には良い勉強になったと私は思っています。

 結果は仕方ありません。何かを決めなくてはならない時、外れる人が出たとしてもそれは選んだ人の責任でもありませんし、選ばれなかった人が全て悪いわけではありません。孫娘のクラスには前期と後期の児童会長がいましたから、ピアノの伴奏者までこのクラスから出すことには無理があったかもしれません。たとえどんな理由があろうとも、出された結果には従うほかないと思います。そんなことよりも、どんな結果が出ようと、自分は精一杯努力したか否かです。自分が一生懸命に努力をして、それでも願いがかなわなかったなら、自分の力が足りなかったということです。人生は願うようには行かないことを知ったなら、それはそれで良かったのではないかと思います。

 まだまだ、長い人生です。孫やその友だちの皆さんが自分の思う道を一生懸命で生きていって欲しいと思います。校長が「立派な人になってください」と話されましたが、立派な人というのは社会的な地位のある人になれということではありません。自分の人生を一生懸命で生きる人のことだと思います。私はあれから50年も過ぎてしまったのかと考えさせられた今日でした。
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