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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

父の個人主義

2007年06月20日 20時22分28秒 | Weblog
 「あんたはお父さんやお母さんに感謝している?」と聞いてきた77歳になる姉は、自分が父親や母親のことを日ごろ思い出さないことが気にかかっているようだ。初めは私の両親への思いの深さを測られているかと思ったけれど、姉の周囲で「両親のおかげだ」とか「両親にいつも感謝している」という言葉をよく耳にするのに、どうやら姉自身が余り両親のことに感謝の念が湧いてこないので、気にかかったのだろう。

 私は姉に「感謝しているわけではないけれど、お父さんやお母さんのことは思い出すことはあるよ。お父さんやお母さんとの付き合いというか、時間的な長さで言えば、姉さんの方が長いんだから、お父さんやお母さんのことはよく知っているんじゃーないの」と逆に尋ねた。母は私が高校1年の時、父は高校3年の時にこの世を去った。父よりも母のことをよく覚えているのはそれだけ印象の強い人だったからだと思う。母の印象については姉と同じ意見だった。とても感情の激しい人だった。正しいと思うことはとことんやる人で、母には中途半端は許されない、そんな気がした。父はまるっきり反対な存在で、感情を表に出さない人だった。

 「でもさあ、お母さんは家を大事にしていたし、『お前は親の面倒を見るんだよ』としつこく言っていたけど、お父さんは何も言わなかったね」と私が姉に言うと、姉は「お父さんはリベラルだった」と答えた。姉のリベラルという言い方に私はちょっと戸惑った。父は明治の生まれだ。確かに大正ロマンの中で生きてきたかもしれないが、どれほどだったのか私にはわからない。姉が言う「リベラル」という意味は「一般常識的ではない」ということなのか、「共産党的」ということなのか、もっと他の意味があるのか、今度会ったら聞いてみたいと思っている。

 父は長男であったのに、家業が材木屋であったのにもかかわらず家業を継がずに教師になった。父が残した日記を読むと、恥ずかしいほど世間知らずだ。世間知らずという言い方が適切でないのかもしれない。世間に染まらず、夢想の中に自分の生を見ていたのかもしれない。父は年上の母に恋をして結婚した。子どもが産まれ、家庭の主となったが、母以外の女性に恋い慕っているなと思う文章が日記がある。それは現実の出来事だろうけれど、父が勝手に妄想して作り上げた世界なのかもしれない。私にはいつも静かに本ばかり読んでいた印象しかない。姉には厳格な父親であったようだが、私にはよき理解者で、同士のような存在だった。私が生徒会長に立候補するために演説の原稿を書いていたら、父は黙って聞いていたのに、翌朝には父の手で添削してあった。

 長男に生まれ、家業を継ぐ運命にあった父は自由を求めていたのだろう。自由に生きることは自由に恋することでもあったのだろう。父は個人主義者だった。自分を一番大切にしていた。本当はそんな風に生きたかったのに、現実の父はそう生きられなかった。そんな父の血が私に中に流れている。個人が確立していなければ、集団の意味もない。集団の中にあって、一人ひとりが自由に自分らしく生きられる、そこに初めて制約や扶助も成立するのでないかと思っている。全くバラバラな個人が一つになると。
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姉のチケット

2007年06月19日 20時22分01秒 | Weblog
 今年の3月で、77歳になった姉は歌手の秋川雅史さんのファンで、「7月に河口湖で行われるコンサートに連れて行って欲しい」と言う。「アアそんなことくらいいいよ」と返事をしてしばらくしてから、また姉から電話があった。秋川さんのファンクラブに入っているので、「事務所に3人分申し込んだんだけど、よく見たら一人2枚しかダメだと書いてあったからどうしよう」と言うのだ。「事務所に電話して頼んでみたら、ダメだったら他で買えばいいから」と答える。聞いていた長女は「それは絶対ダメ。伯母さんに電話させずにパパがしてあげればいいのに」と口を挟む。「いいの、いいの。何でも自分でやってみたほうがいいんだよ」と私は答える。

 それからまたしばらくして、姉が「やはりチケットは一人2枚しかダメだといわれたので、もう1枚は別のところに申し込んだ。こちらの人は親切で、すぐに郵送すると言ってくれた」と電話があった。「それで、3枚分のお金を振り込んだんだから1枚分のお金は返してくれるの?」と聞くと、「キャンセルはできないと言うのよ。私のミスだから仕方ないわね」と言う。おいおい、確かによく確認せずに振り込んでしまった姉に落ち度はあるが、チケットは2枚しかダメなら当然残りの1枚分は返金すべきだろう。もし、本当に振り込んだあなたの方が悪いと返金を拒否するなら、お金の金額ではなく商売のモラルとして、絶対に許さないぞと闘志がメラメラ湧いてきた。

 そこで姉のところに出かけ、姉が見て申し込んだという事務所のコンサートの案内チラシを見せてもらった。一人2枚までと書いてはあるが、余分に申し込んだら返金しないとは書いてない。姉がチラシの1行を見て「余分に申込みがあった場合は、抽選して返金するとあるけど、抽選で外れたら返金しないと言うことかね」と聞く。「いやこれは予定の数より多く申込みがあった場合、申込み順ではなく抽選し、外れた人にはお金を返しますという意味だよ」と私は答える。姉が言うように間違って振り込んでも返金しないは、チラシの文面からは見つけられない。とにかく電話してみようと事務所にかけてみる。録音テープで、11月までのコンサートのチケットは全て売り切れたこと、余分に振り込んだ人や抽選で外れた人は6月末までに返金しますと流れていた。その旨を伝え、「でも振込み用紙はちゃんと持っていてね」と念を押しておいた。

 姉との旅行は久しぶりだ。次女夫婦がバンコク赴任となる前に、妹も交えてタイに出かけた時以来だ。「腰が痛くなければ、もう一回タイへ行きたいね。カンボジアのアンコールワットへも連れて行って欲しいね」と言う。そんな姉がふと「一回あんたに聞きたかったんだけど、お父さんやお母さんに感謝することはある?」と聞く。「エッ?どういうこと」と聞くと、「秋川さんはコンサートで両親には感謝しているとよく言うんだけど、あんたはどうかなと思って」と姉。「そりゃー親父やお袋のことは時々思い出すことはあるけど、感謝していると言えるのかな。現在の自分があるという意味では感謝しているのかな」と答える。おそらく芸能人が両親に感謝と言うのは職業的なアピールだろう。それよりも自分が両親から何を受け止めてきたか、そのことのほうが大切な気がする。姉はそんなに両親のことを思い出さないことが気がかりだったようだ。
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親子ケンカ

2007年06月18日 23時00分04秒 | Weblog
 すると娘が、「どうしていつも高いところから人を見下すような言い方をするの。そんな風に決め付けて欲しくない」と、言い出した。なかなか好青年だとは思ったが、ボランテイアの話を聞いて「ちょっとなあーと思った」というのは私の感想であって、娘の拒否反応にはビックリした。彼女は私がいつも自分の判断を押し付けることに不満がいっぱいあったのだ。ここで彼女が「私はこう思った」と言えば、「そうかなあ、でもさー」と話が続くのだろうが、彼女にとっては私の言い方そのものが受け入れがたいものなのだ。それは理解できたが何しろ飲みながらの席である。

 「背が低いとか、色が黒いとか、自分の責任ではどうしようもないことを言っているのではないよ。あなたがこういう父親でも選べないと同じだ。でもそれ以外のことは、それぞれが結果的には自分で選択しているだろう。その選択の上に現在の結果があるんだ」などと、お酒の勢いでますます饒舌になっていた。そしてどういうつながりからなのか覚えていないが、「結婚しなければ、また別の人生があったわけだ」と言ってしまった。何でも勝手に決めつけ押し付ける父親ではあるが、まさか父親が結婚したことを悔やんでいるとは、それは自分たち姉妹の存在も否定することではないか、きっとそう思った娘は泣きながら「どうしてそんなことを言うの。私は家庭が一番大事だと思っていたし、家庭を誇りに思ってきたのに、結婚しなければ良かったと本気で思っているの」と涙を流して言う。「いや、そういうことじゃーないよ」と言えばよいのに、「誰でも自分の選択が本当によかったのかなと思うものじゃーないのか」と、私もちょっとムキになってしまった。

 人はいつも選択して生きている。現在はその結果だからもちろんそれを受け入れているし、私は自分の選択に満足している。満足していても、あの時、ああしなければ違っていただろうなと思うことはむしろ自然なことだろう。そう思うことで逆にこの現実を受け止められるのではないのだろうか。しかし、家庭を一番大事に思っている彼女は「もしあなたもそう思っているなら即離婚です」と婿殿に食って掛かるので、私は「僕にはもったいない妻と娘たちに恵まれたと思っているよ」と言う。実際そのとおりだからだ。いつもはこんな言い合いばかりになってしまうので、気が廻らなかったけれど、私の選挙にかかわってくれた友人は一同に「うらやましい家族ですね。みんな献身的で、前向きで、元気がよくって、思いやりに満ちていますね」と言ってくれる。

 私という父親は娘たちには「ヘンな人」であるらしい。私は子どもたちに理由もなく「ダメなものはダメ」と押し付けてきた。それは父親の価値観と価値判断を伝えておくことが父親である私の務めだと思ってきたからだ。子どもたちが大人になれば、反発するものは反発するし、そうして自分の価値観や価値判断を形成すればよいのだ。だから断固として、私の価値観や美意識を子どもたちに押し付けてきた。なかなかうまく伝わらないのは、親子なのだから当然だと思う。婿殿に「ゴメンネ、いやな思いをさせたね」と言うと、「いいじゃないですか。ウチなんか、こんなこともありませんよ」とホローしてくれた。
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もう一度バンコクの話

2007年06月17日 22時54分39秒 | Weblog
 もう一度、バンコクの話。2日間あったバンコクでの滞在で、最初の日にジム・トンプソンの家に出かけた。タイシルクの生みの親として知られるジム・トンプソン(1906年生まれのアメリカ人)が生前、住居としていた家を博物館として公開している。火曜日の午前中は無料で日本人ガイドがつくという。ジム・トンプソンは、第二次世界大戦終了後に情報将校としてタイに派遣され、そのままタイに永住してしまったほどタイが好きだったようだ。彼はシルクの手織りに興味を持ち、その普及に没頭しその結果、タイシルクの名を世界的なものにした。しかし、1967年3月26日マレーシアのキャメロン高原での休暇中に謎の失踪を遂げ、いまだに行方不明だ。

 さて、この説明を私たち3人ともう一人の若者が聞いた。彼は一人で旅をしているというので、「じゃー、一緒にお昼を食べないか」と誘った。遠慮するので、「おごってあげると言う時くらい甘えておかないといいものが食べられないぞ」と強引に連れ込んだ。なかなか品の良い青年で、これからミャンマーへ行き、さらに西へと進み、ギリシアからエジプトに渡り、エジプトからモロッコへ、モロッコからサハラ砂漠を抜けて東へ、ケニアから南に向かい南アフリカが最終地点だという。大学生で、来年3月末まで休学していると言う。昨年もこのタイで彼のような長期の一人旅の若者に3人出会ったが、若いということはいいなあーとつくづくと思った。

 「これからどうするの?」と聞くと、「大使館に行って、ボランテイアが無いか聞いてみるつもりです」と言うので、「ボランテイアって、何がしたいの?」と尋ねた。「学校を造るとか、いろいろありますでしょう」と彼。それまでは、一人で未知なる土地を歩くすごいやつだなと感心していたのに、彼は一体何がしたいのかと疑問が湧いてきた。ボランテイアをどんな風に思っているのだろう。1日や2日、ボランテイアで働いたとして、それを受け入れるところがあるかも疑問だ。仮にそういう団体があったとしても、彼自身は何の目的があって、ボランテイアをしたいと言うのだろう。そんなことを議論しても意味の無いことだからと思い、「体には気をつけてね。無理をしないことと、飲み物・食べ物には充分注意して、やり遂げてください。無事の帰国を祈っていますよ」と言って別れた。

 この日の夜、婿殿も交えて食事をしながら、「今日は素敵な青年に出会ったんだよ」と、青年の話をした。そして、「ただちょっと、ボランテイアの話にはガッカリした。余りたいした男ではないのかもしれないな」と言ってしまったことがとんでもないことになってしまった。この続きはまた、明日にしよう。
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伊良湖へ

2007年06月17日 00時00分08秒 | Weblog
 今日はアメリカに一緒に旅行した仲間と一緒に伊良湖へ行ってきた。アメリカ旅行の時のお金がまだ余ったままなので、それを使って楽しもうというものだ。本当はアメリカ旅行の時にお世話になった、仲間の中のお姉さんが日本にやってきた時に、一緒に歓迎の旅行などする時の費用に当てようとしていたお金だ。ところがそのお姉さんが身内に不幸があって来日が延期になってしまったので、じゃあ皆で亡くなった仲間の一人を偲んで、伊良湖へ行ってみようというものだ。

 河和まで行き、ここから高速船で伊良湖へと渡った。私が高校生の時に来た、恋路ケ浜をぜひ皆さんに歩いてもらいたかった。ホテルの人にその話をすると、まだ若い従業員は「今日はちょっと遠周りをしましょう」と言って、私たちを恋路ケ浜まで送ってくれた。こんな気の利いた若者に会うのは気持ちがいい。人はなぜか海を見ると、波に向かうようで、私たちも子どもの頃に戻ったように、波と戯れた。「東海の小島の磯の」と啄木の歌が自然と口に出た。

 一緒に行けなかった仲間の奥さんを呼び出し、夕食をともにし、その後はカラオケにも行ってはしゃいだ。年老いてからもこんなにはしゃげることに驚きと満足を覚えた一日だった。
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バンコクから緑が消えていく

2007年06月15日 23時31分00秒 | Weblog
 今朝、出会った人から早速、「バンコクに行ってみえたんですね。4日間行ったのに実質2日しか滞在できなかったですよね」と声をかけられた。ウム!ブログを読んでくれたのだと思うと、もう少しバンコクのことを書いておこうという気になった。実は行く前から、「今日はバンコクから書いています」と発信しようと、いつものgooブログのアドレスをコピーして持って行った。これは自分が使っているアドレスなのだからこれで大丈夫だと思ったのだ。それに以前、バンコクの娘のところのパソコンから以前使っていたniftyの私のブログに書き込みができたと思っていたので、今回もできると思い込んでいた。

 近頃のホテルにはインターネットの接続端子が部屋にある。私たちが泊まったホテルもそうなっていたが、ノートパソコンを持っていなければ使用できない。そこでホテル内にそんな施設はないかと聞いてもらったら、答えはもちろん「ある」というものだった。そこへ出かけていくと、その施設はいかにもビジネスマンが使用する部屋で、使用料はと聞くと、「1分単位で18バースだ」と言う。いくらタイの物価が安いとはいえ、1分で60円くらいはかかる。私のパソコン能力では絶対に1時間はかかるから3600円かかることになる。これではあきらめるより他なかった。

 「じゃーウチに来てやったら」と娘が言ってくれたので、二人の生活ぶりを見るにもちょうどよい機会かと家にまで行くことにした。パソコンを開けてブログのアドレスを開くが、「パスワードを打ち込んでください」と出る。おかしいなあ、自分のブログの編集アドレスなのにと腑に落ちない。しかしよく考えてみれば、他人のパソコンから書き込みをしようとしているのだから当然のことだ。そう思うとパスワードの記憶は真っ白で、結局娘のところからもできないことが判り、自分の愚かさに愕然とした。

 娘夫婦が借りているマンションの周りはまだ、緑が残っている方だが、それでもあちらこちらでマンションが建てられている。地震の無いタイでは超高層ビルの建設がいとも簡単に進んでいる。もともと沼地であったバンコクにはたくさんの水路があって、東洋のベニスと呼ばれていた時代があった。ところが今では、無計画な乱開発が進み、うっそうとしたジャングルは無くなり、水路も埋め立てられてしまっている。

 だからだろうが、超高層ビルの隣にはトタン屋根で冷房もないあばら家が点在している。トタン屋根ではないけれど、2階建てのレンガ造りの家もあるが、ここも冷房は備わってはいないだろう。昔は冷房など必要のないくらい涼しかったそうだが、今は冷房の無い生活は考えられない。超高層ビルは完全冷房であるし、モノレールも地下鉄も寒いくらい冷房が効いている。車はがんがん冷房を効かせている。お店も普通の家も冷房が効いている。この電力はどこで賄っているのだろうか、知りたくなった。

 婿殿は「もうタイもダメですね」と言う。「この国の経済はここまででしょう」とも言う。私は世界の経済活動そのものがもう限界ではないのかと思っていたので、婿殿の意見に同意した。
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バンコクに行ってきました

2007年06月14日 23時16分57秒 | Weblog
 月曜日からタイのバンコクへ行ってきました。今、帰ったところです。
 「3泊4日の超安いたい行きがある」と新聞広告で見つけたカミさんは、初めて自分で申込みを行い出かけた旅行です。3泊4日とはいっても、2日間は行きと帰りに取られてしまう台北経由の旅なので、タイで過ごせたのは2日間です。目的はバンコクに住む次女夫婦に会い、頼まれていたお土産を渡すことでしたから、2日間でも充分でした。次女夫婦はバンコクで過ごした3夜の食事に付き合ってくれたばかりか、親子のわがままな会話にも婿殿は嫌な顔もせずに参加してくれました。

 バンコクはいつ行っても活気のある街です。アジアでは東京、ソウル、バンコク、シンガポールは大都会です。北京や上海、香港も「もうメチャだい都会ですよ」と人は言いますから、きっとそうに違いないでしょう。それにしてもどうしてあんなに人が多いのかと思うほど、人ひとで溢れています。それにバンコクの人はいつも食事をしているのか、どこに行ってもどんな時間帯でも、屋台が出ていて、食べるものを売っているような気がします。南国特有の食べ物のにおいがどこにでも漂っていて、それだけで私はもうお腹がいっぱいになってしまいました。

 またバンコクは人種のルツボとも言われています。確かにいろんな国の人々がいます。韓国語や中国語をよく耳にしました。もちろん白人もいれば黒人もいます。白人の女性たちはグループが多いのに、若い白人の男性はカップルで来ているのに、年寄りの男性は結構一人で来ているようです。私たちが泊まっていたホテルで、毎朝一緒になったお年寄りの白人男性がいました。アインシュタインにも似た風貌で、一人で黙々と食事をする姿は哲学者のような雰囲気があったので、私は彼を「哲学者」と名付けました。右手の人差し指を右のこめかみに当てて瞑想する姿は正しく哲学者でした。「絶対に彼は哲学者だよ」と私はカミさんに自信を持って言いました。

 翌朝、再び同じ時間に「哲学者」に会いました。今朝は少し疲れ気味のようです。でも、昨日の朝のような哲学者然としたところがありません。むしろ疲れているのに浮き浮きした感じがしました。しばらくすると「哲学者」の隣に、黒い髪が美しい若いタイ女性がいるではありませんか。タイの女性は顔が小さくて、手足が長く、胸は大きくありませんがお尻が盛り上がっているので、とてもセクシーです。タイの女性たちは日本の女性のように白くなりたいらしいのですが、男性の私から見れば、ちょっと黒い方がより健康的で魅力的な気がします。白人の年老いた男性が、手足が長く人形のようなタイ女性を連れて歩きたい気持ちは理解できますが、「哲学者」のイメージが壊れてしまい、カミさんがそのことに気がつかないようにと祈りました。
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藤原正彦さんの『若き数学者のアメリカ』

2007年06月10日 23時27分41秒 | Weblog
 藤原正彦さんの『若き数学者のアメリカ』は面白かった。結局、私は読み損ねてしまったが、1日1ドルでアメリカを旅した小田実のアメリカ旅行記にはどんなことが書かれていたのかと思った。私たちが若かった頃はそんな旅が流行ったと思う。私が始めて海外旅行をした時は、先日書いた大学の先生の奥さんとその2人の娘さん、それに私とカミさんと娘の6人の旅だった。イタリアのベネチアとフレンツェをゆったりと見て回る豪華な旅行だ。パック旅行ではなくて、英語が達者な先生の奥さんが窓口になって連れて行ってくださった。ベネチアの町を歩き、島々を回り、フレンツェの美術館と教会を堪能した。

 最初の海外旅行が素晴らしい思い出に包まれたものだったので、以後の海外旅行はどの旅も満足いくものばかりだった。出会った人々は誰もがなつかしく思われるほど、素敵な人々ばかりだった。海外旅行の度に、人類はなぜ戦争を繰り返してきたのだろう?戦争をするほど憎めたのはなぜなのだろう?この疑問がいつも付き纏った。私たちが今は豊かな国に住んでいるからであって、もし貧しい国に住んでいたなら資源が欲しいと思うだろう、分け与えるべきだと主張するだろうと、人は言う。本当にそうなのか?現在、アメリカは世界一豊かな国なのに、一番戦争をしている。世界の貧しい国は戦争する力も無い。

 藤原さんは「敵国アメリカに負けてなるものか」という気持ちで初めはアメリカを見ていた。その気負いと緊張からホームショックになり、ノイローゼに陥った。ミシガンの冬の気候がますます彼を憂鬱にさせた。そこでフロリダへとひた走る。フロリダで北欧の透き通るような白い肌の画学生に出会い、金持ちの彼女の祖母の別荘に居候となる。ここに来て、藤原さんは「負けてなるものか」という気持ちが消えていく。「開かれた」女性である彼女の肌にローションを塗る間柄にさえなる。すっかりアメリカ人だが、それ以上には進まない。次に移ったコロラド大学で、彼はストリークを見る。単に高みから見るばかりでなく、大学の先生である彼が裸の学生たちの行動について回るのだからおかしい。それだけではなかった。藤原さんは「それが不満で」、一人で裸になって通りを走るのだ。この感覚はなかなか理解できないが、そういうこともあるだろうというくらいは理解できる。

 このコロラド大学で彼がいい子だなと思った女子大生とクリスマスを間近かにした夕方、雪の降りしきる街角で出会う。彼女は寒さに震えながら「もう当分会えないのね。淋しいわ」と言った。そして「どのくらいの間、抱擁していたのだろうか」と言うくらいの二人なのに、それからはどこにも彼女の名前は出てこない。いったい、藤原さんはこの本の中にもあるように、「お母さんが決めた子と結婚したのだろう」かと気にかかった。

 私は大学の先生の奥さんを、この人ほど優れた人はいないと思っている。私がこの地域で新聞を作った時も、そして首長選挙に立候補した時も、骨身を惜しまず協力してくれた。男と女の間を越えた友情を、同志に似た思いを、私は抱いていた。私に世界を見せてくれた彼女はごちゃごちゃとした世間を超越して存在していた。藤原さんは結局、どのような人生を歩んだのだろう。どのような経緯で誰と結婚し、そして何を考えて生きて来たのだろう。藤原さんが私と大きく歳の離れた人なら考えもしなかった思いがふつふつと湧きあがってきた。
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大人は忘れ、歳をとってしまう

2007年06月09日 22時07分44秒 | Weblog
 劇団「はぐるま座」の詩の朗読と童話劇を見ました。何年か前に、「はぐるま座」が高杉晋作を上演するので、手伝って欲しいと敬愛していた方から頼まれ、人集めを手伝ったことがあります。「はぐるま座」は毛沢東を信奉する思想演劇集団だと認識していましたが、演劇の上演のために、農協や商工会や企業にも働きかけるのには驚きました。この人たちの頭の中はどうなっているのか、私には理解ができず、今回はただ参加だけさせてもらうことにしました。

 磯永秀雄さんの詩の朗読が7編、この他に朗読劇、大型紙芝居、童話劇があり、上演時間は2時間半近くもありました。磯永さんの詩を朗読したい気持ちは理解できましたが、少し欲張りすぎで、しかも子どもたちには難し過ぎました。一番印象に残ったのは、児童館の子どもたちによる詩の朗読です。私も朗読クラブに参加し、朗読の発表会にも出させていただいたことがあり、皆で声をそろえて朗読することの難しさを体験しました。しかも子どもたちが朗読した詩はかなり長いものです。とてもよくできていたと思います。

 詩の題は『右手のしたことを』というものです。詩の中身は
  右手のしたことを
  左手は知っている
  (略)
  わたしが右手なら
  わたしの左手のようなやさしいものが
  わたしをみつめている
  おとなは ほとんどそれを忘れて
  としをとってしまうのだ

 歳をとるということは、若い時の新鮮な気持ちを忘れるということなのかも知れません。この詩が作られたのは1961年1月ですから、あの60年安保闘争の挫折感が広がっていた時だったのでしょう。60年安保闘争に参加した、当時20代から30代の人々は「これで日本は生まれ変わる。本当の民主主義国家になる」と信じていたようです。60年代のアメリカはベトナム反戦運動が各地の大学で盛り上がりました。クリントンやヒラリーが学生と時です。ベトナム戦争がアメリカの敗北で終わると、学園から政治運動は消えてしまいました。次に現れたのは、通りを素っ裸で走り抜けるストリークでした。アメリカの学生は「全てに幻滅している」ようです。日本も70年安保の後、大学から学生の「闘争」は消えてしまいました。

 「現在の学生たちはこう考える。科学者になったところで科学の発展という美名の下に人類の間化を推進させる役に立つだけだし、政治家や大会社の社長になっても単に権力や冨を手中に入れるだけで真の幸福は得られまい。たとえ目標や理想を掲げて進もうとしても現代の巨大な社会機構においてはどうにもなるまい。」(藤原正彦著『若き数学者のアメリカ』より)。人類は新しい時代に入ったと私は思っています。ぜひ、藤原正彦さんの『国家の品格』を読んでみたいと思います。
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日本人以上のトルコ人

2007年06月08日 23時52分30秒 | Weblog
 毎週金曜日の夜は「日本語クラス」です。
 外国人に日本語を教え、彼らが少しでも日本での生活ができるようにと活動している。私は昨年までは、教える側の人がいない時だけのピンチヒッターで、時々出かけていたに過ぎなかった。ところが今年は責任者になったので、ほぼ毎週出かけている。しかし、今晩は雷を伴う雨降りだ。このような時は受講者ゼロという日が多い。先々週も雨降りで、7時半から始まるのだが誰も来ない。8時まで待って、「仕方ないから帰ろうか」と教え役の人と話して帰った。今晩はその時よりも降り方が激しい。「どうやら今晩も誰も来ないね」と話していたら、昔このクラスに通っていたことのあるトルコ人の青年が「遊びに来た」と、入ってきた。

 「せっかく来てくれたんだから慣用句を教えてあげたら」と言う先輩の言葉に従うことにした。この先輩は、日本語クラスを10年以上続けてきた人だ。そばで聞いているとなかなかうまく教えるなあーと感心する時がある。「私は学歴がないから」と言うが、彼女の教え方を見ていると、学歴なんか問題じゃーないなと思う。10年以上という経験はとても大きい。

 さて、そのトルコ人の青年だが、17歳で日本にやってきて19歳で日本の女性と結婚し、今は2児のパパだと言う。日本語検定の2級に合格しているというから立派だ。2級の問題に私も挑戦してみたが、どの答えだっていいような問題が多く、かなり難しい。「すごいね」と言うと、「いやもう昔のことですから、今受けたらできないかもしれません」と言う。「それじゃーよく使われる慣用句を勉強しよう。よく会社の社長なんかが『不徳の致す所』とテレビで言っているが、不徳とは何か?」と聞いてみた。そんなことがきっかけになって、道徳について話したり、そこから発展して、「じゃー、『見栄を張る』というのはどういう意味だと思う」と聞いた。

 それから昔の日本人は「武士は食わねど高楊枝」と言ったことや、借金することを恥ずかしいと思っていたのだが、今は借金することをなんとも思わなくなってしまっていると話した。すると彼は「俺的には古い人間で、カネがないのにカネがあるように見せるのは間違っていると思っている。夢を持つことはいいけれど、夢に流されるてはダメだ」と言うのだ。グレーの瞳を輝かせて話すトルコの青年は日本人以上に日本人になっている。彼と同じ位の歳の日本人に聞かせたいくらいだ。

 その彼は「日本は自分が来た時に比べ、外国人が多くなっている。もう国の堺にこだわる時代ではないですよ。誰でもが自分が働きたいところで働き、住みたいところに住めるのがいいのではないですか」と言う。「必ずそういう時代が来るよ」と私は答えた。
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