友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ほめられれば生きる力になる

2009年04月09日 22時34分15秒 | Weblog
 昨日のNHKテレビ『ためしてガッテン』で介護を取り上げていた。脳卒中になって、立てない・歩けない・話せない人が、リハビリをして自分で立ち、歩き、話せるようになったのはなぜかをテーマに放送していた。夫は脳卒中で倒れ、半年後に医者から「これ以上の回復は見込められない」と宣告された。自宅での介護は一時も目が放せず、妻は困り果てていた。しかし、そこからが凄いなと思うところだが、半身不随の夫をよく観察したところ、何もできないと思っていた夫にもできることがあることに気が付いた。

 半身不随の人からすれば、自分は何もできないから頼るのは「情け」だけである。それで、ついつい甘えてしまうし、そうせざるを得ない。けれどもその妻は、夫が着替えできないのは服の裏表がよくわからないからだと気が付き、裏には赤いリボンをつける。もちろん夫は1枚着るのにもすごく時間がかかる。手を出した方が早くいくが、そこで我慢して待つ。できた時には、最高の笑顔で夫をほめ称える。

 こんな調子で、それまでは夫のためと思って何でも手を出していたけれど、今度は夫のためと思ってできるだけ自分でさせる。できない夫は妻に邪険にされたと思い、悲しみと怒りで怒鳴ったり怒ったりしたそうだ。それでも我慢して、夫ができやすいように工夫して自分でやるように仕向ける。やっていくうちに人間はできるようになるものだ。絶望的な状況にあったのに、少しずつ回復していくのだ。人間が持っている自然治癒力にビックリする。

 全くと言ってよいほど話せなかったのに、今では普通に話すことができる。これは電話がかかってきた時はまず夫に出てもらいようにしてきた結果だ。おそらく初めは何を言っているのかわからないような発音だったに違いない。けれども回数を重ねていくうちに、人は何とか話せるようになるようだ。孫くらいに頼んで何度も何度も電話させたのかもしれない。そのうちに孫の声が聞きたくて、ひとつずつ会話になっていったのではないだろうか。

 番組の中で、人間の脳は脳卒中で失われた部分を他の機能の部分が補おうとしているようだ解説していた。人間の脳の何%か定かではないが、まったく使われることもないままに「死」を迎えてしまうそうだから、機能を失った部分を埋める働きをする他の部分が生まれても不思議はない。

 介護ではほめることが何よりも大事だと納得した。ほとんど判断できないだろうと思われる症状の人でも、自分が馬鹿にされていたりすれば敏感に感じ取る。接する側の態度は意外に分かるものだ。だから逆に、「すごいですね」とほめればそれだけで機嫌がよい。誰でもほめられていやな人はいないだろう。ほめられることで回復が進むことは確かだと思った。ほめることは相手を認めること、認められることは誰でもうれしい。人が生きていく基本だろうな。
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「ようやってくれたね」と言われて

2009年04月08日 19時57分04秒 | Weblog
 さすがに肉体労働が二日間続いたのでちょっと疲れた。特に右手の親指の付け根が痛くて物を捕まえることができない。重い物でも人差し指から小指の4本で吊り上げることなら何とかできる。それでも1月に比べれば痛みはかなり減ってきた。NPO「おたすけ」では私は若い方に属するのに、年上の皆さんに頼ってばかりはいられない。痛みが減ってくれば、ついつい頑張ってやろうとするから、結果的には肉体的疲労は増してしまう。

 月曜日に2本、そして今日新たに1本、井戸掘りを行なった。3ヶ所とも運のよいことに豊かな水量なので安心した。濃尾平野は地下4.5メートル前後のところに水脈があるようだ。この家の90歳になるお母さんが「昔のことはよく覚えているが、昨日今日のことを忘れてしまう。私たちの頃には書類なんかなかったから、どこの何なのか言われてもさっぱりわからん。そんでもねえ、歩けるうちはいいわね。こうやって皆さんにお茶を持ってくることもできるしね。手が動けんくなったらどうしょうね」と話しかけてきた。

 「私なんかもすぐ忘れる。あれ、今何しに来たんかなと考えることばっかりですよ」と仲間がお母さんに言う。私が「手が動けんと困りますか」と聞くと、「お飯が自分で食べられないがね。口あけて食べさせてもらうのはかなわんね」とお母さんは言う。「妹が、ボケたなんて言ったらいかんと言うけどね、あの子も始まっとるでね」とお母さん。「妹さんはおいくつですか」と尋ねると、「7つ下だがね」とお母さん。「昔は7つもあるとえらい違いだったけんど、もう変わらへんでね」と続ける。話し相手が欲しいのだろうなと思ったけれど、お母さんの相手ばかりしているわけにもいかず困った。

 それでも2つ目の井戸から大量の水が出て、放水銃で空に吹き上げて見せると、「ようやってくれたね」とほめてくれた。後は手押しポンプをどれにするか、決めてもらったら発注し、取り付ける作業と、もう一つの井戸の方に電動ポンプを据付け、庭に散水できるように配管をする。かつてこの家にも井戸があり、散水の装置もあったけれどいつの間にか水が出なくなったとお母さんは嘆いていたけれど、それをもう一度復活させてあげたい。

 それにしても男手のないこの家の庭は手入れができていない。廃棄物があちらこちらに山になっている。600坪あるというから、女だけでこれを守るにはやはり無理がある。「井戸の設置ができたなら、一度みんなでこの庭の手入れをしませんか」と提案している。今日は作業するには暑いくらいだった。これからこんな日が続くだろう。寒くては仕事にならないけれど、暑さもまた大変である。皆さんが熱中症にならないように気を配らなくてはならない。

 年寄りはどうも我が強い。なかなか折れることがない。ぶつかってしまう前に取り成すことも大事だが、無理なく持っていかないとただの八方美人と言われかねない。決して前に出ず、年上の皆さんが納得してもらえるようにしなくてはならない。事務方のつらい役割だが、誰かがそれを引き受けなくては組織は機能しない。それもまた疲れるが仕方ない。
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植物はいつも正直だ

2009年04月07日 23時40分26秒 | Weblog
 千葉県知事に当選した森田健作さんが問題になっている。ちょっと新聞を読んでいなかったので、詳しいことはわからないが、なんでも外国企業からの献金を禁じている公選法に違反していることに加えて、自民党の千葉県の中の支部長であるにもかかわらず「無所属をうたって選挙を行ったのは詐欺行為だ」というのだ。それを教えてくれた私の知人は「森田健作は知事を辞任せざるを得ないね」と話していた。けれども、今のところ新聞報道では辞任の記事はない。

 愛知県西尾市の中村市長は、贈収賄事件で拘留されているが、市議会の辞職勧告に対して拘置所から議会の解散を命じている。何度も選挙に立候補し、負けても志を変えず、既成政党に頼らず、とうとう市長の座を射止めたことで、私の知人は「会って来たらどうか」とまで評価していた。私自身はすでに立候補の意思がなく会うこともなかったけれど、こうなってみるとどんな人物なのか会って確かめてみたかった気がする。

 政治家は疑われたらそれで終りだ。だからこそ疑われるようなことをしてはならない。もし仮に、ハメられるような事態になったなら、こういうことは政治の世界ではよくあることだが、自分がどのように疑われていて、そして自分には何も罪がないことをきちんと説明すればよい。説明できないなら罰を受ける覚悟が要るだろう。ソクラテスではないが、「悪法もまた法なり」である。

 女流作家の田口ランディさんが自作の『蝿男』について、「腐った純愛であり、腐ってしまうほどの愛である」と紹介していたが、クソもみそも一緒にしたようなこの小説の方が現実の政治の世界よりも興味深い。森田健作さんのあの元気いっぱいの姿が私はどうも好きになれない。世の中にはあんな風に元気な人がいるけれど、どうしてそんなに元気でいられるのか私には理解できない。惨めにくよくよしていたなら叱り飛ばされそうだ。

 けれども人間はそんな風に、いつもいつも元気で頑張っていられるわけが無い。落ち込む時もあれば泣きたい時だってあるはずだ。いつも表通りばかり歩いている人には、人間の弱さや醜さや悲しさが理解できないのではないかと思ってしまう。森田健作さんが自分の非について理解が及ばないのは、あんな風に明るい自分しか見えていないからではないだろうか、そんなことをふと思ってしまう。

 桜が満開になった。満開の桜は次々と花びらを風に舞い散らしていく。やがて花に代わって緑の葉が枝を覆うことになる。桜は美しく咲き誇った昨日までのことを忘れないだろう。そして緑に包まれていくことに満足しているだろう。たとえその次に、葉は紅葉して枝から去っていくとしても。植物はいつも正直だ。己の役割を知り尽くしている。
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ミサイルと桜と入学式

2009年04月06日 21時36分50秒 | Weblog
 北朝鮮のミサイル発射は何だったのか。北米航空宇宙防衛司令部は「北朝鮮が主張するロケットによる人工衛星の打ち上げは失敗だった」との見方を明らかにした。日本政府は、海上自衛隊の海上配備型遊撃ミサイル「SM3」搭載のイージス護衛艦2隻を日本海に、航空自衛隊を秋田・岩手両県や首都圏に地対空遊撃ミサイル「PAC3」を配備し、即時発射できる態勢をとっていた。

 前日に2回の「誤報」事件に振り回された地方行政の担当者は、何事もなく終わってヤレヤレといった様子だった。発射情報から緊急体制に移るまでがかなり短時間だったことからほっと胸をなでおろした人もいたことだろう。おそらく一番安堵したのは北朝鮮のミサイル発射を担当した部署ではないだろうか。人工衛星を軌道に乗せたかどうかよりも、北朝鮮が予告した水域にミサイルが正確に着水したことでその技術力の高さを世界に示した。技術力は即軍事力であるのだから。

 それにしてもどうしてこんなに人間は愚かなのだろう。ミサイル技術を競い合っても、それは死亡させる確立を高めるだけではないか。そんなにも他国を支配下にしたい、他国を引き摺り下ろしたい、それが政治と信じているのなら、政治家は昔のように1対1で堂々と素手で戦ったらどうだ。戦争をしてまでも他国を支配したいと思うような人は実際にはごく少数であろう。みんな、今日が幸せに暮らせるならそれでいいと思っているのだから。

 「国の安全を守るのが政治の役割である」と、誰かが言っていた。そのことを否定する気はないけれど、お互い様であることを忘れて、自国の安全だけを追求してはならないだろう。「降りかかる炎は払わなくてはならない。それが政治の仕事だ」と言う人もいる。そんな現実処理だけが政治の仕事なら、余りにも智恵がない。政治は炎を上げさせない、炎が無用となる社会にしていくことだろう。「それは理想論だ」と言う人がいる。理想に近づけることが政治の仕事だと私は思う。

 北朝鮮は近いうちに国家の解体という事態に直面するだろう。一枚岩と言われていた共産圏は崩壊し、残っている「共産主義的な国家」も大きく様変わりしている。「資本主義では経済恐慌を救えない」として、「新しい資本主義へ」のプラカードを掲げてデモをしている人々がロンドンにいた。「世界は大きく変わろうとしているし、若い人が変えていかないとだめだね」と、先日会った81歳の叔父がそう言っていた。

 今日は小学校の入学式で、可愛い新入生が両親に手を引かれて登校していた。校庭の桜は満開になった。この子たちが大きくなる頃は、ミサイル発射などという事件のない社会であって欲しいと思う。軍事力競争から脱却し、全ての国が軍隊を持たない社会へ向かって欲しい。憲法で戦争放棄を定めている日本こそがその先頭に立つ資格がある。軍隊を持たないことが誇りとなる時代へ向かうように努力しなくてはならないと思う。

 桜咲き入学式は春爛漫 穏やかな日々続けと祈る
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長女の結婚式

2009年04月05日 22時18分17秒 | Weblog
 セレモニーは厳粛であるよりも感動的な方がいい。長女の結婚式が4日、花婿の実家がある神社で行なわれた。丁度、朝市も行なわれていて、おそらく江戸時代まではこんな風に人々が集まってきて結婚を祝ったと思われるように結婚式だった。宮司の下で神事を手伝う人を何と呼ぶのか知らないが、白い着物に青い袴をつけた3人はおそらくこの町の神社の氏子に違いない。この神社で結婚式を挙げるのは初めてということでかなり緊張している様子だった。

 司会役も地元の人なのだろうが、口ひげは立派だったけれど何しろ段取りが悪かった。そうした手際の悪さがかえって落ち着かせてくれた。神社での文字通りの神前結婚式であった。神事に立ち会ったことは何度もあったが、この日の神事は特別のものだった。その極みは花婿の父親とその仲間による雅楽の演奏だった。聞くところでは、花婿の父親はこのためにこそ息子の結婚式をこの神社で挙げたかったという。

 そして、花婿の姉が美しい声で「さくら」を独唱し、その後に父親とその仲間による伴奏で参加者全員が「さくら」を合唱する独創的なメニューも組まれていた。「雅楽の演奏」と書いたけれど、実際はクラリネットやサキソホンやトロンボーンやサンササイザーに和太鼓が加わっての演奏だったが、その楽曲は正しく「雅楽」になっていたし、「さくら」の演奏もよかった。「雅楽」は日本古来の楽器で演奏するものなので、「あんな西洋の楽器で演奏するものを雅楽とはいえない」と私の姉などはヘソを曲げていたけれど、そんなことにこだわることはないと思った。

 少し雨が降ってきたので、私たちはタクシーで披露宴が行なわれる料亭へ出かけたが、新郎新婦は相合傘で街を練り歩いてくるという。披露宴のプログラムは全く聞かされていなかったので、どんな進行なのか不安だった。母親の知り合いという踊りの師匠がボーイスカウトでの新郎とのエピソードを語り、この街の芸者さん5人が日本舞踊を披露したり、父親の音頭で新郎新婦の街が歌われたり、これまでに経験したことのない披露宴が展開されていった。

 新郎から「お父さんにはぜひ、愛について語ってもらいます」とは聞いていたけれど、どんな展開になるのかわからなかったので、ぶっつけ本番の方がいいと思って準備らしいことはしなかった。新郎の父親の出番の後、司会役の女性が「それではここで新婦のお父さんに登場していただきます」と言われた。愛について、どう話せばいいのか、しばし迷った。宴席でしかも皆かなり飲んだ後だ。それならば仕方ないと週刊ポストに載っていた渡辺淳一と高橋のぶ子の対談から、男と女はいつまでも恋をした方がいいのだという話をした。

 本当はもう少し、男と女が恋をするにはお互いの信頼が必要だということを盛り込みかったけれど、そんな堅苦しい話は無用に思い、手を握っているだけでもいいのだということで話を結んだ。「人は誉められて大きくなるとか、SEXは身体を使った究極の会話だ」という対談の核心を話す余裕もなかったが、理屈っぽい新婦の父親を充分に演出できたと思う。次女やカミさんの妹やらが私の演説に合いの手を入れてもくれ、面白おかしくできたのではないだろうか。

 極めつけは新郎による作詞作曲の「あなたのママに出会って恋に落ちたけれど、あなたと二人でママを幸せにしようね」という新郎の歌だった。孫娘のことを本当に気にかけてくれている様子が手に取るようにわかり、涙が止まらなかった。ありがとう。お幸せに。頑張ってください。応援しています。
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麻生さんと小沢さんの「国民本位」

2009年04月02日 17時31分54秒 | Weblog
 麻生首相が本年度補正予算を今国会に提出し、早期成立を目指すと言う。そして、野党の抵抗で審議が長引けば、「再議決に必要な60日を要してでもやるか、審議を打ち切って選挙すべきか、その時の状況で判断する」と記者会見で話していた。

 「政局よりも政策でしょう」と公言していたにもかかわらず、政局をにらんでの発言ではないのか。その真意もわからないではない。麻生さんが首相になった時、自民党としてはいっきに解散して選挙に打って出る予定だったと思う。麻生さんが欲のない生粋の自民党政治家ならば、党の意向に従ってそうしたのかも知れない。けれども麻生さんは首相の座に就き、世界の政治家と一緒に写真を写され、その心地よさに痺れた。そこへアメリカ発の金融恐慌がやってきて、ずるずると解散を引き延ばす結果となった。

 勢いを増す民主党に対して自民党は防戦一方であったが、民主党の小沢代表の政治資金問題でいっきに逆転した。自民党への信頼が増したわけではないが、とりあえず「民主党も自民党と一緒か」というレベルまで民主党を引き摺り下ろすことには成功した。たとえ、自民党の二階さんの政治資金が問題になったところで、国民の受け止めは「自民も民主も同じではないか」と強く思うだけだろう。政治資金の問題でごちゃごちゃやっていれば、長引けば長引くほど、自民と民主の差はなくなっていくだろう。

 そう政局を読んでいるから、これから先に野党のイメージダウンとなるような事態がまた生まれるようなら、解散もありうると脅しているのだろう。残念ながら民主党は自民党の「反転攻勢」に抗し切れない。小沢さんが党首を辞任しないからだ。小沢さんは自身の進退を判断するのは「(自分ではなく)国民の皆さんの判断だ」と言い、「(自分が)続投することが選挙に有利かどうかで判断する」とも言っている。

 この発想は麻生首相と同じだ。選挙に勝つことが政治だと思っている。政治資金問題が生まれること事態が小沢さんの問題なのに、その理解は全く無い。政治の透明性というものを本当に考えているなら、じゃあどうするのか、その手本を示すべきだろう。議会制民主主義とか国民本位の政治とかどんなに言ったところで、その中身を明らかにしなければ、信頼できるものではない。そればかりか、議会制民主主義や国民本位の政治の立場から、今問われている政治資金問題についてどのように考えるのか、何一つ明らかにしていない。

 確かに自民党がほくそえむように、小沢問題は自民党にとっては有利だろう。千葉県知事選挙で森田健作候補が当選したのも小沢問題が大きく作用していたはずだ。けれども、小沢さんは「影響があったことは事実」と認めながら、党首を辞任する気がない。小沢さんには政治資金問題は官憲の暴力であり、辞めることはそれを認めたことになるという論理が働いている。けれども本質は小沢一郎個人の名誉よりも、政治の正当性が問われていると思う。千葉県知事選挙で誰が当選したというより、県民の意識がどのように変わっていったのか、本当はそこが知りたかった。

 さて、都合により、明日と明後日はブログを休みます。5日にはお目にかかれると思っています。
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高校野球では負けたチームの校歌を

2009年04月01日 23時01分37秒 | Weblog
 高校野球を見ていた。やはり準決勝は見応えがあった。昨日は朝から井戸掘りだったので、テレビを見ることはできなかった。いやそれよりも、水脈のある辺りから深く掘り進めることを目指した今回の実験であったが、三度目の挑戦にもかかわらず成功したとは断言できない状態だった。珍しく夕方まで作業をしたのに、期待した結果にならなかっただけにどっと疲れてしまった。聞くと早稲田実業は清峰に負けたと言う。

 それで今日は大和塾の4月例会および総会の後、花巻東と利府の試合を見ていた。「どちらも勝たしてあげたい」、そんな試合だった。利府は21世紀枠で甲子園へやってきたが、その試合振りは強豪に引けを取らないものであったので、どうしても勝たせてやりたかったし、花巻東はピッチャーがすごいかったからできれば優勝戦まで行って欲しかった。ところが、そのすごいピッチャーがホームランを打たれた。そうか、清峰の勝利かと思っていたら、花巻東が逆転して最後は抑えた。

 勝利チームの校歌斉唱を聞いていて、ヘンなことを考えた。こんなにいい試合を高校生は見せてくれるのだから、甲子園の試合では勝利したチームの校歌ではなく、負けたチームの校歌を斉唱するというのはどうだろう。勝ったチームは次に校歌を聴く機会があるけれど、負けたチームはもうそれで校歌を聴く機会は無い。ならば、負けたチームがグランドに立ち校歌を聴くとしたならば、全ての参加チームの校歌を聴くことができる。「これって、フェアじゃない」とカミさんに話す。

 するとカミさんは「あなたはいつも人より先にいってるから、せっかくのアイディアも全然受け入れられないのよ。地域誌の発行、そのネーミング、大学公開講座、花と緑のまちづくり。みんなもう少し後からだったら認めてもらえたかも知れないのにね」と冷やかし半分に言う。それは、せっかくのこの提案は誰も賛成しないわよってことか。スポーツは対戦した相手を称えることを第一にすべきだという私の主張はまたしても粉砕された。

 3月の中旬に初夏の陽気だったのに、下旬からいっきに寒さがぶり返し、桜はいっこうに満開にならない。まだしばらく寒さが続くというので、今年は入学式の頃の満開も危ぶまれている。このまま寒さが続くと桜は満開の時期を失うのではないだろうかとありもしない心配をしていたら、こういう季節の桜は満開の期間が短いと気象予報士が言っていた。暖かくなればいっきに咲くけれど、花もちが悪いのだそうだ。

 そういえば、街路樹のケヤキが芽を吹いているように思っていたら、いっきに緑が目立つようになってきた。異常気象であっても、自然は確実に移行している。緑はいいな、どこかへ出かけたいな。
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