友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「疑わしきは罰せず」

2009年04月21日 22時03分32秒 | Weblog
 和歌山毒物カレー事件の被告に対し、最高裁判所は「死刑」の判決を下した。被告の自白もなく、状況証拠だけで、「被告以外に犯人は考えられない」という決定である。被告は1審では黙秘を貫いたけれども、2審からは「自分はやっていない。無罪だ。犯人は他にいる」と主張してきた。毒物カレー事件が発生し、犯人はあの人ではないかと噂されるような時期に、マスコミからの攻勢に対し被告は余りにも態度が悪かった。状況証拠となるようなものが余りにも多かった。

 先日、最高裁の判決で痴漢行為の犯人にされていた大学教授が無罪となった。毒物カレー事件の被告もきっと希望を抱いたことであろう。けれども判決は希望とは違った。痴漢事件の犯人とされた人も、被害者の証言だけだった。けれども考えてみると、痴漢事件は被害者の証言がある。それに対して毒物カレー事件は「カレーのそばにひとりでいたのを見た」という証言があるだけだ。毒物を入れていたということではなく、「なんとなく不審な行動」というものだ。

 事件を結果から見るとどんな行為も不審に思えてくるし、どんどん先入観が働くようになってしまう。マスコミ報道でしか私は知らないが、このアヤシイと言われている女性が真犯人だろうと私も勝手に思っていた。被害者の関係者は、絶対に犯人を探し出し、極刑になってもなお納得できないくらいの気持ちなのだろう。警察も犯人を見つけられなくては権威失墜であるから、とにかく誰かを捕まえなくてはならない。

 痴漢事件の犯人にされた大学教授は、無罪判決にホッとしたと思う。生死ではなく、名誉のレベルであっても、それで一生が決まってしまう。これからの人生だけでなく、これまでの人生も判決によっては白黒どちらかに決められてしまう。もし、有罪の判決であったなら、死んでも死に切れない思いであっただろう。ましてや毒物カレー事件は有罪なら死刑である。

 毒物カレー事件の被告も今頃は発狂しそうな思いで夜を迎えているのかも知れない。誰だって、自分がやっていないのに状況証拠だけで「お前しか考えられない」と決め付けられてはかなわない。「犯人ではないのに犯人にされ、死刑を言い渡されたのでは誰に何を言えばよいのか」。毒物カレー事件の被告は裁判を甘く考えていたのかもしれない。また逆に正義は必ず無罪と言ってくれるだろうと思っていたのかもしれない。マスコミを相手にお調子に乗りすぎた。

 でも、だからと言って「やっていない」と言う人を死刑にしてよいのかと私は思う。いや、犯人に間違いないと言うのであれば、やはり「動かぬ証拠」が必要だろう。自白もなく、決め手となる証拠もないのに死刑としていいのだろうか。学校で法について最初に学んだ言葉は「疑わしきは罰せず」であった。痴漢事件では二人の裁判官が「有罪」であったが、結果は疑わしきは罰せずと原則どおりの判決となった。
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