友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

七五三を祝って

2016年10月11日 17時11分25秒 | Weblog

 小1の孫娘の七五三のお祝いは大須の三輪神社で行われた。長女たちが住んでいる街にも有名な神社があるが、孫娘や長女の着付けや化粧のことからここがよいとのことだった。何よりもお祝いの主である孫娘の食事のことを考えると、私たちジジババは和食で一杯飲めればいいが、孫娘はスパゲッティとかピッザの方が好きなのだと長女に言われ、納得した。

 三輪神社は大須の一角にあり、お祝いのために来ている家族が何組かあった。いずれも私たちのようにジジババが2組ついている。賑やかになった大須の街を歩いてみたが、本当に若い人たちが多い。私が住んでいる街では見ることがないと思われる服装で歩いている。外国人も結構いる。私も中学生だったら友だちと一度は来ていたかも知れない。アニメの服を売っている店もあれば、シールを売っている店もある。こんなものが商売になることにビックリした。

 小さな時からスケートやテニスあるいはゴルフを習わせ、一流の選手に育て上げる親たちがいる。また英会話教室やバレエ教室に通わせ、外国で学ばせたいと話す親もいる。昔のように教養として学ばせるというより、一攫千金を子どもに託そうとしているのだろうか。私も子どもたちにバイオリンを習わせたが、ピアノを置けるような住宅ではなかったことと何よりも音楽に慣れ親しんで欲しかったためで、有名人になって稼いで欲しいとは思わなかった。

 子どもがやりたいことは生活費を切り詰めてもやらせてあげたかった。それで彼女たちの人生が広がればよかった。ドーナツ屋さんになるにはいくらかかり将来どれだけ収入が得られるか、夢に向かうか安定を求めるか、私は子どもの頃考えたことはなかった。今も金銭感覚に疎いからカミさんに叱られてばかりいる。これは親の教育が悪かったのか。それでも子どもはいつか自分の道を見つけて進んでいく。

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夏目漱石の結婚

2016年10月09日 18時26分52秒 | Weblog

 姜尚中さんの話の中で印象的だったのは次の言葉だった。「夫婦は番狂わせがあるけれど、友だちは番狂わせがまずありません」。これは夏目漱石夫婦を引き出すための言葉だったが、私には説得力があった。友だちは長い付き合いの中で形成されていく。昔から「類は友を呼ぶ」というように、どこか似たところがあるから友情が育まれる。ところが夫婦は、昔なら見合いで結婚したから相手を理解し合うことなど無かった。

 恋愛結婚も相手を理解するというよりも、「好き」という感情が先走って何も見えないまま結婚してしまっている。夏目漱石の場合は見合い結婚で、しかも相手は漱石よりも裕福な家庭の娘だった。嫁の家は後に落ちぶれてしまうが、漱石がロンドン留学できたのは嫁の父親の働きであったことは確かだろう。漱石は明治維新直後の東京生まれ、父親は名主であったが武士ではない。身分に対するコンプレックスが漱石には一生つきまとったように私は思う。

 それと幼児期の体験も大きいだろう。両親が高齢だったのですぐ里子に出されたが、商家だったから放っておかれていたのを不憫に思った姉の直言で一度引き取られた。再び父親の信頼の厚い名主の里子になったが、父親とその里親との間で諍いもあり夏目の姓に戻ったのは帝大生の時だった。子どもの頃は秀才であった漱石だが、進路については兄との対立もあったようだ。いかにも神経質な人格が形成される要素が大きい。それだけに心が通じ合う友だちとは仲がいい。

 嫁となった女性は自由な家庭に育ったから、どちらか言えば大雑把な人だったようだ。漱石と平気で大喧嘩してしまうところからヒステリー症とも言われているが、NHKの土曜ドラマ『漱石の妻』を観ていると、漱石の自分勝手で女性蔑視の態度によく我慢していると同情したくなる。このドラマも来週15日が最終回だ。伊豆での大出血が描かれるのだろうけれど、漱石の作品に共通する男女の三角関係はどう描かれるかと思う。

 姜尚中さんが漱石は資本主義が隆盛していく時代を見ていると評価されているのは分かるが、その先にあるものは何だろう。明日は小1の孫娘の七五三のお祝いなのでブログは休みます。

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グローバリゼーション

2016年10月08日 17時46分18秒 | Weblog

 「今 思いたって、先生のブログを読んでいます。びっくり」と今朝、卒業生の女の子からメールがきた。ビックリしたのは私で、何か悪いことでも書いたのだろうかと思いすぐ返信した。お昼過ぎに彼女から、「ただ のってる事に 驚いただけです」とメールが届いた。電話ではなく、遠く離れた相手と瞬時に文章のやり取りができる、凄い時代になったものだ。

 彼女もまだガラケイだが、カミさんは子どもたちとラインでつながっているから、画面で会話が出来るし、映像も交換できる。私たちが子どもの頃、漫画『鉄腕アトム』でそんな時代が予想されていた。人型ロボットではないが、生産は完全にロボット化された。テレビコマーシャルには前方の障害物を感知して自動的に止まる車があるし、自動運転の車の生産も間近だろう。

 姜尚中さんと内田樹さんが「グローバリゼーションは何時ごろからよく使われるようになったのか」という会話をしている。ということは、彼らが大学生だった1970代はまだ一般的ではなかったのだろう。私は名古屋芸術大学の大島学長から、「これからはこういう時代だよ」と言われてプレゼントされた本を思い出した。ドイツの首相だったヘルムート・シュミットがハインリヒ・ハイネ大学で行った公開講座を大島先生が翻訳した『グローバリゼーションの時代』(集英社)である。いただいたのは2000年だった。

 経済活動は一定の地域に留まらず必ず拡張していく。経済の中心国は戦後、イギリスからアメリカに移ったが、今そのアメリカも覇権維持に躍起になっている。生産の中心商品も繊維から車や電化製品へと変わり、さらにIT産業へと移った。人の知能はどんどん新しいものを発見し、生産化していく。凄いなあーと思う。それでも、「ねえ、もう連絡はしてくれないの こんなに長く待ち続けているのに」といった恋の歌に惹かれるのはなぜなのだろう。

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母の教え

2016年10月07日 17時39分54秒 | Weblog

 卒業生の女の子が、そう言っても60歳の女性だが、「水彩画展に出品しているから観に来て」とハガキをくれたので安城市へ出かけた。安城市の歴史博物館は立派な建物で、ギャラリーがいくつもある。3階の展示場へ上がっていくとお年寄りの男性が3人と中年の女性が受付にいた。その女性が「先生」と声をかけてくれてやっと気付いた。昨年のクラス会に来ていたとばかり思っていたが、「出席できなかった」と言うから42年ぶりの再会である。

 話していたら昔の面影が蘇ってきたが、高校生の時よりちょっとふっくらしていた。三菱自動車に就職し、そこで出会った男性と結婚し、二人の子どもに恵まれた。「水彩画、うまくなった?」と聞く。「いい雰囲気が出ているよ」と答える。高校生の時は写実ばかりに重きを置いていたから、絵を楽しめることはなかっただろう。個性的であるより、多くの人から認められる「キレイな」絵を描かせていたので、申し訳ないと思う。

 年老いてきて高校時代のクラスメートとよく会い、旅行も行くようになったと言う。年月は人を豊かにしてくれる。NHKの新しい朝ドラ『びっぴんさん』に菅野美穂さんがお母さん役で出演していた。確か、この人は高校生の時に朝ドラでデビューしたと思う。博多を舞台にしたドラマで、菅野さんはどちらか言えばもうひとりのヒロインの脇役だったが、私は菅野さんしか印象にない。

 その菅野さんは母親から「仕事と健康と貯金は、なくなってからでないとありがたみが分からない」と教えられたそうだ。「そう言えば、母もよく、『いつまでもあると思うな親と金』と言ってたわ」とカミさんが言う。「お金に苦労してのね」とお母さんを思い出していた。私の母は「ジェントルマンになりなさい」と言っていた。それがレディーファストを意味しているだけなら、私は母の言いつけを守っている。

 次に、私は子どもたちに何を残していけるだろう。

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長谷川豊アナウンサーが見落としているもの

2016年10月06日 21時52分49秒 | Weblog

 以前、フジテレビの朝の番組『とくダネ』にいたアナウンサーが突然消えてしまったけど、彼はどこに行ったのかと思っていたら、話題の人になっていた。フリーのアナウンサーになっていた彼は放送中の言葉ではなく、彼のブログが炎上して番組から降板することになった。今日の中日新聞の特集『弱者への暴言はなぜ』にその長谷川豊アナウンサーの記事があった。

 彼のブログ『本気論 本音論』の9月19日に、「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ」とあり、さらに「透析患者には一人年間500万円かかります。日本人の平均年収以上ですね。必死に払ってる保険料、そうやって食いつぶされ続けているのです」とある。

 「日本の医療界を牛耳る『日本医師会』は自民党の大サポート組織です。そして、製薬会社も同じく、自民党の大献金先。ご老人たちは、自民党の大応援団です」と解説する。「結局、自民党の、自民党による、自民党のための日本政府が続くために、日本では、自民党に献金する集団や、自民党に票を集める組織、投票する人がみんな笑って楽しんで、儲かって暮らせるシステムが出来上がっていて、それが今は行き過ぎているのです。なので、若者たちが絶望する社会となっているのです」と歯切れよく主張する。

 実際その通りだと私も思うけれど、彼の主張は相模原市の障害者施設で起きた連続殺人事件の犯人と似ている。役に立たない人間は生きている価値がない、いやむしろ弊害だとする考え方だ。人間はいろいろで、みんなで支えていけばいい、これが近代の人権思想であったはずなのに、いつの間にか、役に立たない奴は殺してもいいという考えがはびこってきた。

 豊かな生活の中で暮らしてきた人たちが、不景気の直前に味合う不透明さへの怯えが表出したのだ。自分より弱いと思われる者に対して、社会が支えていることへの苛立ちで、自分は強く健康で充分に価値があると思っているから、その自分よりも優遇される弱者が気に入らないのだ。

 実に情けない人たちだと思う。自分は絶対に弱者にならないと思っているけれど、いつどこで立場が変わるかも知れない。いや、そんなことよりも、人としてすべての人が認められる社会であることこそ理想の社会ではないのか。理想に向かって進むことが人の使命ではないのか。長谷川アナウンサーはその視点が欠けていると思う。

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この世は蜉蝣のようなものなのか

2016年10月05日 18時39分21秒 | Weblog

 再び今夜から明朝にかけて台風が来るという。9月のいつからか覚えていないくらい青い空を見ていない。ルーフバルコニーの植木鉢を風の当たらないところに移動し、排水口が詰まらないように落ち葉を集めて掃除をする。不要になったものの整理をするつもりでいたが、今日は月に一度の『劇団・新感線』の映画の日だ。これまで7本の映画を観たがそのきっかけは姪っ子の3男の演劇を観たからだった。

 歌舞伎のようでもあり、ミュージカルのようでもあり、不思議な映画である。言えるのは徹底して娯楽を極めていることだ。ほとんどが中島かずき作、いのうえひでのり演出だが、今日の『蜉蝣峠』は宮藤官九郎作であった。宮藤作といえば、私はNHK朝ドラの『あまちゃん』しか知らないが、確かにテンポがよくって、「えっ、そうなのか」と思わせてくれる。

 この『蜉蝣峠』も初めは何がなんなのか分からないので、私の隣りの女性は眠っていた。私はどういうストリーなのか、どういう結末になるのか、それが気になった。最後は古田新太と堤真一の死闘が舞台いっぱいに展開され、結局ふたりとも死んでしまう。だから何なのさ?と思うけれど、どちらが生き残っても「不正義」となってしまう以上こんな結末しかないだろう。

 何だかよく分からないのは築地市場の豊洲移転も同じだ。石原慎太郎知事の時代に移転が決まったようだが、土壌の汚染対策をせずに地下空間を作ることに誰がいつ決めたのかはっきりしない。その時に土地買収に関わっていた幹部たちはそれぞれに天下りして優雅に暮らしている。石原知事の信任が厚かった知事本局長の前川さんは2005年7月に退職し、9月には東京ガスの執行役員となり、2012年まで勤めている。2005年は東京都が豊洲の用地買収の話し合いをしていた時で、「土壌汚染の処理の確認書」を交わしている。

 遊郭を取り締まる立場を利用して私腹を肥やす、まるで今日の演劇に出てくる悪代官のようだ。庶民には訳の分からないことだが、裏ではしっかり筋書きができていた。そんなものなのか、庶民はいつも同じ、みんな死んでも世の中は変わらない。

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ノーベル賞の大隅さんとは同学年だが

2016年10月04日 18時16分48秒 | Weblog

 同じ学年というだけで勝手に親近感を抱くのはどういう訳なのだろう。同じ時代を生きてきたからきっと共有するものがあると思い込んでいるが、全然感じ方が違うということもよくある。夏祭りに参加していた人で最高齢は私の兄と同じ昭和6年生まれだったが、その方が亡くなってしまい昭和14年生まれが一番上になった。続く15年生まれとは同時代を生きてきたのに考え方は極端に違うから、同じ時代の人でも受け止め方でその後の人生は大きく違うようだ。

 生まれ持った能力、育った環境、人は様々だから当然様々な人生がある。ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大隅良典さんは昭和20年2月生まれだから私とは同じ学年だ。2008年に益川敏英さんと共に物理学賞を受賞した小林誠さんは、カミさんと同じ高校の同学年ということもあって、まるで知り合いのような気になっていた。1963年、小林さんは名古屋大学へ、大隅さんは東京大学に入学した。

 私たちが大学生になった頃は、60年安保闘争で挫折した先輩たちがニヒル感を漂わせていた。まだ70年安保のようなゲバルトはなく、せいぜいジグザグデモだった。しかし東大では全学を上げて「東大解体」が叫ばれていたように山本義隆さんの『知性の反乱』にある。大隅さんは入学以来10年近く東大に在籍し、1971年に同じ大学院の研究生と学生結婚している。どんな人生だったのか、何を考えていたのかとちょっと気になった。

 新聞報道によれば2歳年下の万里子さんは大隅さんから電話があった時、「いつも私をからかうので、またウソをと思った」とある。「外では先生でも家ではぐうたらな人」とのろける。そして「身体が心配なので、授賞式には私も付いていかないといけない」とほほ笑む。ノーベル賞を受賞した人のカミさんはユニークな人が多い。大隅さん自身も受賞決定の気持ちを聞かれて、「まだありません。お祝いのお酒も飲んでいないので」と言い、「浴びるほど飲めば実感するかも」と話す。

 同学年の大隅良典さん、ノーベル賞おめでとうございます。

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60年ぶりにいとこたちと話す

2016年10月03日 17時34分55秒 | Weblog

 生まれ故郷の寺で、墓石を撤去するための法要をしていただいた。墓石が傾いてきて気にはなっていたが、自分が決断することもはばかられて、ズルズルと後回しにしてきた。故郷に居る叔母から電話をもらってウヤムヤした気持ちが吹っ飛んだ。叔母は「後に残された者が困らないようにしている」と自分のことを話されたのだが、私は「そうだ。誰かが決めなければならない」と思い、墓石の整理は私がやるしかないと決意した。

 叔母にも了解してもらい、今日、そのための法要をしていただいた。父のすぐ下の叔母とその娘と息子、そして電話をくれた叔母とその娘、姉の娘とその夫が参列してくれた。一番上の叔母が亡くなった時、葬儀で出会ったが誰かも分からないまま別れてしまったので、親しく話をしたのは60年ぶりくらいではないだろうか。祖母が亡くなったのは小5年か小6年の時で、それからはいとこが我が家に集まることがなくなってしまった。

 わが家は材木屋だが、叔母たちはサラリーマンの妻だったから、実家にはよく子どもを連れて来ていた。正月前の餅つきやお盆は特に賑やかだった。いとこたちの中では私が年上だったので、一緒に遊んだりして面倒をみていた。今日、「何歳になったの?」と聞かれて、「72だよ」と答えると、「えっ、そんなに違わなかったの!もっと上だと思っていた」と言う。「遊んでいたのは小学校の時だから、そんなものじゃーない。小さい時は1学年違うだけで大人に見えたから。やっぱりみんな歳をとったわね」とも言う。

 電話をくれた叔母のひとり娘は私とは同じ中学校の卒業で、私が高校生の時、私の担任が卒業生を囲む会を計画し、その席で「お前のいとこは南中一の美人だな」と彼女のことを褒めていた。60代の今もまだまだ美人だ。もうひとりのいとこが「娘がもらってきた同窓会誌にご両親のことを書いた記事があったわよ」と教えてくれたがもう、私は記憶がない。祖母や母が「この山門(写真)はおじいさんが建てた」とよく言っていたことが誇らしく思えた。

 

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