友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

新任7人が再会できた

2016年10月21日 17時53分11秒 | Weblog

 午後2時10分くらいだった。何かがきしむ音がして家具が揺れた。地震だ。強くなるのか、収まるのか、待った。3秒くらいのように思ったが、実際はもう少し長かったのかも知れない。テレビを点けると鳥取県中部を震源地とする地震だった。鳥取で起きた地震で遠い愛知まで揺れるのか。時間も同じ昼間だった3・11東北大地震を思い出す。

 「もうジジババだから、会っても分からないわよ」と言われたが、実際分からなかった。1つの高校に新任が7人というのは珍しいことだろうが、伝統のある職員数100人近いマンモス校だったからだろう。50年前に新任だった7人が揃って再会できるのも奇跡に近い。確かに50年前に比べれば年老いたから体形が随分変わった人もいる。待ち合わせ場所でウロウロしていると何となく気になる人がいる。ひとり、ふたりと集まって来て、ああ、やっぱりそうかと思い出せた。

 予約してある居酒屋へ行く。スタスタと歩ける人もいるが、歩幅が狭く遅い人もいる。席に着いてまずカンパイ。それから途切れることなく思い出話に花が咲く。なんだ、全然変わっていないじゃーないか。大人しく、無口な人は相変わらず口数が少ないし、声の大きい男は今も大声で話す。7人の中で一番ハムサムで運動もできて、すぐに女性が好きになってしまう男は「絶対深入りしない」と決めてやって来たと言う。いくつかのロマンスがあってもよさそうなのに、「好きだ、好きだ」と言うだけで何もしない男だったが、そういうことだったのかと納得する。

 一番大きく変わったのは大声の男で、カミさんをガンで亡くし、90キロ近くあった体重が60キロ代にまで落ちた。ショックから立ち直るために心理学を勉強し、資格も取得し、今では若者たちのカウンセラーをしている。顔つきも穏やかで優しい。「奥さんを亡くされたのか」と誰かが言えば、「若くて可愛いカミさんをもらった」とのろける。生き生きしているのはそのせいだったのか。「結婚は何度やってもいいものよ」と再婚したもうひとりが煽る。あっという間に4時間近く過ぎた。みんなちゃんと帰ったのだろうか。

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青森県黒石市の写真コンテスト

2016年10月20日 15時59分25秒 | Weblog

 自殺した子どもが被写体では、祭りの写真としてふさわしくない。そう考えて市長賞の作品を取り止めるように指示した青森県黒石市の市長が、一転して市長賞を贈ると発表した。市長は会見で「今回、一番懸念したのは青森市が調査中の段階で写真を出すこと。賞の授与で写真を公表することは本当に良かったのか、その点に関しては永遠に悩む部分かもしれない」と述べている。

 市長の「人権に配慮した」というのは後になってのいい訳で、自殺がいじめによるものだったので、「面倒なことになる」のを避けたかったのだろう。撮影した人に「受賞の辞退」を求めたり、「経緯を口外しない」ように迫る、器の狭さを非難しても仕方ないが、「役人さんは辛いねえ」と思ってしまう。被写体の女の子は中学2年生で、今年8月25日に鉄道に飛び込み自殺した。

 写真はその10日ほど前の「黒石よされ祭り」で写されたものだ。とても可愛い笑顔で踊っている。そんな女の子だが、「もう生きていけそうにないです。いじめてきたやつら、自分でわかると思います。もう二度としないでください」と書き残している。自分は死ぬつもりだから、これ以上他の子をいじめないでという願いだろう。1年の1学期に学年生徒会長に選ばれているから、活発で目立つ子だったのかも知れない。津軽民謡に合わせて踊る「手踊り」の学外チームに所属する踊り上手な女の子だった。

 私が高校の教員になった50年前は、子どもの自殺は見聞きしたことがない。もちろん非行問題はあって、生徒指導部から経緯と処罰が職員会議に報告された。新任の私たちは「処罰」では「教育」とは言えないのではないかと反発した。今晩、その7人と再会する。「もうジジババだから、会っても分からないよ」と言われている。

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坊主になった街路樹のナンキンハゼ

2016年10月19日 18時33分26秒 | Weblog

 街の高校へ続く東西の道の両脇にはナンキンハゼが植えられている。小さな街なので街路樹のある通りはこの道の他は2本しかない。高校生たちがよく茂ったナンキンハゼの下を通う姿は絵になっていた。ところが先日、見事に丸坊主にされていた。北側から伐採が始まっていたので、私が通りかかった時は南側の街路樹はまだ茂っていたので、車を降りて写真を撮った。

 作業員の人が、「ジジイがいちゃもんつけに来た」という顔で見ていた。「どうして伐採してしまうのですか?」とたずねても、「市の方から言われている」と答えは決まっている。私は市に文句を言う気もないし、ましてや作業員を咎める気などさらさらない。ナンキンハゼの街路樹は紅葉がとてもきれいだ。ところがもう10年以上前から、紅葉する前に坊主にしている。街路樹の近くに住む人から、「落ち葉で足を滑らせて危ない」と言われ、夏の終わりに坊主にするようになった。

 行政は苦情に弱い。それはいい面でもあるが、過剰に反応してしまうことも度々ある。「子どもの声がうるさい」と言われて、保育園が建設できないことにも通じる。落ち葉にしても保育園にしても、もっと地域が協力して解決できる方法を探してもよいはずだが、市民の側も自分の権利ばかりで聴く耳を持たないのは情けない。都市郊外の街だから個人の敷地は広くない。「だったら道幅を広げて街路樹を植えましょう」「公共施設の敷地を何%緑化する条例を設けましょう」と提案するが、「理想論」と言う。

 理想を求めなければ街づくりにはならない。現実の処理だけなら議会も必要ない。だから、地方議会の議員は議会を休んでヒマラヤ登山に出掛けたり、東京で豪遊したのに「視察だ」と政務活動費を遣い平然としている議員が生まれてしまう。どういう街をつくり上げていくのか、首長も議員も職員も真剣に考えないで済んでいる。

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サムソンと東芝

2016年10月18日 18時07分06秒 | Weblog

 せっかくよい天気になったので、鉢の土の入れ替え作業するつもりで準備していたのに、午後からは風が強くて作業が出来なかった。仕方がない、こういう日もあると開き直ってみたものの、今日の目標が無くなると何をしてよいのか戸惑ってしまう。溜め込んだ要らないものを捨てようと整理にかかるがどういう訳か気が乗らない。いつか読もうと思って買った本を意味もなく読み始める。

 2013年の中部大学の広報誌に宮本順一特命教授が韓国のサムソンについて載せていた。サムソンと言えば、スマホの売り上げは世界1の企業だが、その新しいスマホが世界各地で爆発事故を起こしている。100万台売って爆発事故は100台というから、多いのか少ないのか私には見当もつかない。死者は出ていないようだから幸いだが、サムソンの威信失墜は必至だ。宮本さんは東芝の先端メモリ開発センター長を務めた後、サムスンのフラッシュ開発室顧問として在籍している。

 サムソンの強みは同族会社で、職場風土は上司の命令は絶対であり、部下は上司のために働く、したがって判断が早く、組織としての動きも早い。不況で日本の企業が投資できなかった時、サムソンは積極投資に出て、高価な設備を超格安に手に入れ、コスト競争力を高めた。優秀な学生がどんどん入社してくるし、海外企業での勤務経験のある途中入者や一度サムソンを辞め競合他社で働いた人も積極的に採用し、生え抜きを飛び越えて昇進させる人事も飛躍の力になっていると宮本さんは指摘している。

 さらに宮本さんは、韓国人と日本人は似通っているが、韓国は年長者を敬う儒教文化が深く根付いている。日本は和の国だが、韓国は情の国と分析し、3・11東北大震災の時、静かに整然と行動する被災者の姿に韓国人は驚嘆していたと両国の違いを語る。東芝では他の部署のためにした仕事でも評価するし、守備範囲の外であっても、誰かがそれをカバーする風土があったと言う。そんな国の違いが、これからの世界経済にどんな風に現れるのかと宮本さんの記事を読みながら思った。

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同窓会を行うのはなぜ?

2016年10月17日 18時01分42秒 | Weblog

 秋らしい日になってきた。我が家のキンモクセイの蕾もようやく色付いてきた。しかし、いつもなら彼岸の頃に咲く鬼ユリは、伸びてきたが蕾のままだ。それでも秋らしくなってきたと私の身体が反応している。目はかゆくてショボショボするし、朝のうちは鼻水が止まらない。どうしようもないアレルギー反応に憂鬱になる。

 昨夜は10年続けてきた大和塾の『ごくろうさん会』を行った。市役所の職員も4人参加してくれて、みんなに一言ずつ話してもらったが、和気藹々と大いに食べて飲んでしゃべったひと時だった。塾生の皆さんはあっという間のとても充実した10年だったと振り返る。ぜひ、これからも会う機会を設けて欲しいと同窓会の提案まであった。

 よいメンバーに恵まれ、確かに充実した10年だった。皆さんへの恩返しのためにも同窓会を企画しなければならないだろう。同窓会と言えば、今度の20日に、50年前に赴任した高校の新任教師だった7人が集まる。毎年、年賀状に「みんなで集まれるといいね」と添え書きがくるが、誰かが音頭を取らなければ進まない。じゃー、自分がやるしかないと宴会場も決めて連絡した。

 みんなに近況報告を寄せてもらったが、人生は様々だ。メールで知らせて欲しいというので送ったのに、一向に返事がこないので届いていないのかと思っていたら今朝、「ウラジオストックから戻りました」とメールが来た。困っている人を見捨てられない人で、「ウクライナ人と知り合いになったので次はチェルノブイリに行こうと思う」とあった。

 そうかと思うと、いつもふざけていてすぐに他人のチンポを握りに来ていた人は今、大学の非常勤講師になっていた。そればかりかニートの青年や発達障がいの高校生の就職支援、笑い療法士として生きる力を持たせる支援を行っている。「みんな死にそうな人ばかりだから、ぜひ、カウンセリングをお願いしますね」と電話で話した。

 20日にどんな話が聞けるか楽しみが増えた。

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時代はいつも移り変わる

2016年10月16日 16時43分03秒 | Weblog

 天気が良いので今日も朝からルーフバルコニーで作業。カミさんはマンションの運動会に参加し、「友だちと昼食も一緒だから何か食べてね」と言う。午前中は風もなく作業をするにはありがたかった。時間も忘れて黙々と作業を続けていると次第に暑くなってきて、羽織っていた上着を1枚脱いだ。誰からも何の連絡もない。何も考えていないのか、それとも勝手な妄想の世界に入り込んでいくのか。

 アメリカ大統領選挙のテレビ討論がニュースで流されていたが、政策とか思想とかに関係のないドロ試合に、「最低な討論」と非難が飛び交っている。明らかにアメリカは凋落の途にある。アメリカ建国の人たちが「民主主義の理想」を語っていた時とは雲泥の差だ。これはアメリカ経済が行き詰まっていることの表れである。トランプ氏のように、「世界の警察である必要はない」「移民も受け入れない」と考えるアメリカ人はいっそう増えるだろう。

 大手企業が今後の戦略を検討し始めているが、「全く先が見えない」そうだ。自治体は国に倣ってバラ色の将来図を、「あくまでも努力目標ですから」と掲げている。人口減少は必至なのに、なぜ減速社会を検討してみようとしないのだろう。企業のように倒産することはないという安心感がバラ色の将来図を描かせている。

 運動会から戻ってきたカミさんが「まあまあの参加者だったわよ」と言う。このマンションも自治会が出来て42年になる。私も引っ越してきて40年になるが、あの頃は30代40代が圧倒的だったから、夏祭りも運動会も文化祭も新年会もにぎやかだった。運動会は子どもたちの活躍の場であったし、親子の競技や懐かしいフォークダンスなどもあった。お昼は運動場で、それぞれが持ち寄って食事をした。しかし、今は体育館の中での運動会に変わった。

 時代はいつも移り変わる。若い人が自分たちの思考と嗜好で決めていけばいい。さて、今晩は大和塾10年間のごくろうさん会である。そろそろ準備しようか。

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電通の女性社員の自殺

2016年10月15日 17時21分54秒 | Weblog

 広告最大手の電通の女性社員が自殺した。東京労働局は昨日、東京本社を立ち入り調査した。関西など3支社にも調査が入る異例の事態となったのは、長時間労働が常態化している疑いがあるためだ。広告に関連する仕事をしている者には憧れの会社だが、実態は厳しいものがあるようだ。私の知り合いも元電通社員なので、この話を聞いてみたいと思う。

 私たちが就職した昭和40年代は右肩上がりの景気だったから、電通は仕事が山のようにあったはずだ。適当な仕事であっても回さなければならない時代でもあった。しかし、今は売るものがないから企画立案はとても厳しいだろう。新米の彼女が「休日返上で作った資料をボロクソに言われた。もう体も心もズタズタ」と感じるのも無理はない。

 それにしても彼女の上司は心遣いに欠けている。どこをどう工夫するといいと指導するのが上司の務めなのに、「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」と言う神経にビックリする。カミさんが言うように「さっさと辞めてしまえばよかったのよ」ということだろうが、何とか頑張らなくてはと真面目に考える女性だったのだ。

 私は大学4年の時、東京の出版社で働いたが、編集会議の席で、私がもらってきた成果を上司は自分がとってきたかのようなに言った。今思えば、自分たちのグループの功績という意味で言ったのかも知れなかったが、その時はこんな上司の下では働けないと思い、会社を紹介してくれた大学の教授に「会社を辞めたい」と手紙を書いた。

 彼女の自殺について、どこかの大学の教授が「月当たり残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない、云々」と述べていたが、猛烈社員が頑張れた時代とは違うし、問題はこういう悲劇を起こさないために何が必要かということである。

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ボブ・ディランを教えてくれた『ガロ』

2016年10月14日 17時42分21秒 | Weblog

 ノーベル文学賞はボブ・ディランさんだった。歌手の受賞は初めてという。ボブさんの歌を私は知らないが、彼の名前は知っている。それは『学生街の喫茶店』という歌に出てきたからだ。「君とよく来たものさ 訳もなくお茶を飲み話したよ 学生でにぎやかなこの店の 片隅で聴いていたボブ・ディラン」。

 1970年前後は学生運動が世界的に広がっていた。アメリカでもベトナム反戦運動や公民権運動が盛んで、若者たちを中心にデモ行動が激しかった。ジョーン・バエズさんやボブ・ディランさんが若者たちと一緒に行進している映像をニュースで見た。今はその面影もないが、ヒラリー・クリントンもそんな若者のひとりだったと彼女は伝記に書いている。

 私が高校の教員となったのは1967年。学校は工業高校のデザイン科で、3年生の中にいつもギターを弾いている生徒がいた。私は授業を受け持ってはいなかったが、担任の先生が病気だったりして彼らと接する機会はあった。教官室の隣りが平面専攻の生徒たちの実習室だったので、時々覗いて作品作りを手伝ったりもした。

 彼らからすればたった4つしか違わないから先生とは思えなかっただろう。「大野、作品やらなくていいのか」とギター弾きに声をかけると、胡散臭そうな目でチラッと見て教室を出て行ってしまった。彼らが卒業して、「大野はアングラ劇団にいる」とか噂を聞いたが、実際に見たのはテレビに映った姿だった。

 高校生の時と変わらず、人生を知り尽くした姿で歌っていた。翌年の1973年にはレコード大賞を受賞、NHK紅白歌合戦にも出場した。学校では杉本健吉さんと並ぶ有名人だ。私は授業のない1年間だけの付き合いだったのに、クラス会の度に呼んでくれる。『ガロ』の大野真澄くんも東京からやって来る。今もちょっと斜に構えているが、飲みだせば誰もが高校3年生になっている。

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桑田真澄さんの嘆き

2016年10月13日 18時03分34秒 | Weblog

 昨夜、月を眺めた。煌々と輝く冷たい月だった。今朝、天気が良かったからルーフバルコニーに出て、咲き終わった夏の草花を抜き、チューリップを植え込むための作業にかかった。あんなにジメジメと蒸し暑かったことがウソのように清々しい。一日、一日と、徐々に秋に向かうように思っていたが、空気は一気に冬のように冷たい。今年は秋が短いのだろうか。

 どんなに季節が変わろうと子どもたちは元気だ。小学校の運動場から子どもたちの声が聞こえてくる。もう運動会は終わったから行進練習はないが、何やら団体競技の練習をしている。「オマエらはバカか」「何度も同じことを言わせるな」「バカヤロー、そうじゃーねえだろう」と先生が怒鳴っている。名前を呼び捨てて怒っている。まるでヤクザのようなセリフだ。

 桑田真澄さんが「日本中、何百というチームを見てきたけど、子どもたちを怒鳴り散らしている指導者ばかり」と嘆いていたことを思い出す。「怒鳴らないと理解してもらえないほど私は指導力がないんですと周りに言っているようなものです」と言うが、私も教師の経験から同感する。生徒をむやみに怖がらせる教師に優秀な人はいなかった。

 中学校の時、予科練くずれという先生がいた。「オレが殴った生徒はみんな東大に行った」と豪語していたが、私は殴られてまで東大に行きたいと思わなかった。生徒をひとりの人間として見ていない教師を信頼することは出来なかった。桑田さんも「叱らなければならない時もある。でも試合中、練習中、最初から最後まで怒鳴ることはない。それだけ情熱があるならもっと勉強して欲しい」と指摘する。

 子どもたちの暴力事件が後を絶たない。極端な見方かも知れないが、学校での先生の言動にも原因があるように思う。どんなに小さくても、馬鹿にしたり恐怖を抱かせるような言動を教師は絶対にしてはいけない。ひとりの人間として接することが相手への思いやりを育てる。親も教師も権力で子どもを縛ってはならない。

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上野千鶴子さんから絵ハガキ届く

2016年10月12日 18時42分56秒 | Weblog

 上野千鶴子さんから絵ハガキが届いた。大和塾の市民講座の講師を引き受けてくださった上野さんと姜尚中さんに、5周年以降に発行した季刊誌『風』を同封し、お礼の手紙を送った。私はお礼やお願いの手紙は手書きにしているが、上野さんへのお願いのやり取りは県の外郭団体と市の男女共同の担当とが絡むものだったので、全てメールだった。ただ、これまでの市民講座の内容や大和塾がどういう団体を知らせる資料は郵送させていただいた。

 上野さんにしても姜尚中さんにしても、忙しいから熱心に資料を見ることはないだろうと勝手に推測し、記念品のつもりで季刊誌『風』を送った。次女のダンナの両親が「姜尚中の講演を聞きたい」と言ってくださった時、私たちがどういう活動をしてきた団体かを事前に知っていただこうと思い、季刊誌『風』を届けたところ、両親からメールで「大和塾の10周年の市民講座の活動に触れさせて頂きました。大変に格調が高く、含蓄のある文集に感心しました」と褒めていただいたので、季刊誌『風』を送る気持ちになった。

 上野さんのハガキには「ごていねいな手書きのお手紙と会報拝受」とある。やっぱり手書きにしてよかった。それにしても上野さんの人柄がよく分かる。ウーマンリブの闘士で、相手をトコトンやっつけてしまうイメージが強いが、市民講座の時も感じたけれど、気さくで気遣いのある女性だ。思った以上に小柄な身体で女っぽい。きっと多くの男たちが彼女に恋したに違いないが、こうした何気ない思いやりがさらに魅力となっているのだろう。

 お世話になった人、引き上げてくれた人、認めてくれた人、いろんな人に助けられてきたのに、なかなかお礼が出来ていない。感謝の気持ちはあっても、それを表せないうちに時が流れ、タイミングを失ってしまう。そんな情けない私に比べやはり上野さんは、当たり前のことだが、格が違う。秋桜の絵ハガキを眺めながら彼女の温かさを感じた。

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