友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人類はどこへ向かっているのだろう

2017年09月09日 17時22分11秒 | Weblog

  カミさんは先週から、「どうもすっきりしない」と言う。「何が?」と聞くと、「頭がもやもやしているし、身体もだるくて、何もやりたくない」と答える。「なんだそんなことか。そんな時は何もせずに、ボヤーとしてればいい。そのうちに治るものさ」と私は自分のことを話す。「うつ」状態になることは度々ある。だからと言ってどうしようもない。時が過ぎるのを待つしかない。

 先日、市の図書館で、題名を忘れてしまったが、「人類の最後がやってきている」といった内容の本を目にして、つい読んでしまった。科学者は人類が危険な状況にあることを知っている。自然科学でも社会科学でも、現状がどんなに危険か、分かっている。地球の温暖化が進み、北極海や南極海の氷が溶け出し、2050年には海面は広がり、オランダは国土をなくす。日本の海岸線も大きく変わる。もちろん、太平洋やインド洋の島国は消えてしまう。

 自動車や工場あるいは農業においても、炭酸ガスが大量に放出されているから、政府は規制を設けて食い止めようとしているが、間に合わないだろうと著者は予想している。トランプ大統領は「地球の温暖化はでっち上げだ」と言い切っているが、カリブ海で大型台風が次々と発生し、アメリカに襲い掛かっている。太平洋でもインド洋でも大型台風が生まれ、猛威を振るっている。ヨーロッパや北米で大寒波が続いたりして、異常気象が日常化している。

 たまたま、今がその周期にあるだけで、いつしかまた収まっていくと言う科学者もいる。人間社会の動きは人間の経済活動によるものだそうだ。経済学の祖、アダム・スミスは「(経済は)神の見えざる手でコントロールされている」と分析したが、「人が創り出したものなのに、人の力ではコントロールできない」と見抜いていたのだろうか。インフレもデフレも政府がどんなに変えようとしても変えられない。

 唯一、人の知恵で解決できそうな「戦争の回避」も、現実は無情にも逆方向へ進んでいる。時の過ぎるのをただひたすら待つことしか人間にはできないのだろうか。それで、未来があるのなら、それでもいいと思うけれど…。

 

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人としては「納得」できる

2017年09月08日 17時32分30秒 | Weblog

  朝のNHKテレビの『ひよっこ』、昼の朝日テレビの『やすらぎの郷』、どちらも15分の連続ドラマだが、働き盛りの人たちは見ている暇がないから、ドラマを観ているのは私たちの年齢の人が多いだろう。それを意識してなのか、『ひよっこ』の舞台は昭和30年末から40年代の初めで、この頃に青春だった人たちが共感するように作られている。

 『やすらぎの郷』は脚本が倉本聰さんで、出演者に往年のスターを揃えている。高級な老人施設で繰り広げられる、かつて華々しく活躍した人たちの物語だ。今週は、戦前からみんなに慕われた銀幕の大女優の死を通して、かなり真面目に死と向き合う展開だった。「死で一番大切なことは納得である」というセリフが妙に残る。

 死ぬ時に、納得もない、否応なしではないか。そう思う。けれど、倉本聰さんはドラマで、「苦しんで死ぬ人も、時間が経つと穏やかな顔つきになっていく。それがきっと納得だと思う。姫(大女優のこと)は死を迎える前からとても穏やかな顔をしていたから、納得されていたのだと思う」と、医師に話させている。

 70代や80代の入居者だって、若い人との恋愛に陥ったり、男同士や女同士で張り合ったり、まだまだ俗世間と変わらない人間模様が展開されてきたが、やはり人の最終局面についても取り上げてきたかと「納得」した。あの世があったとしても、死はこの世での終わりである。私は何も残したくないので、子どもたちには「焼き場で骨を拾ってきてはならない」と告げてある。

 山尾志桜里議員が民進党を離党し、「ハゲ、バカ」で自民党を離党した豊田真由子議員が活動を開始した。同じ東大卒の女性でも、私は山尾さんに女性の魅力を感じるので、ちょっと残念だ。暴言と不倫とどっちが罪深いと考えるかもしれないが、人を人と思わない人よりも、人を愛した人の方が好きだし、人としては「納得」できる。

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友だちが来て、一緒に酒を飲む

2017年09月07日 17時36分20秒 | Weblog

  昨夜、友だちが来て一緒に酒を飲み、午前2時過ぎに「それじゃー、帰りますか」とお開きになった。ぐでんぐでんに酔っぱらっていて、足元が危ないほどだった。午後6時半から始めてこんな遅くまで、よくまあ話すことがあると思うが、さて何を話したかとなると定かではない。私たちの飲み会は1品持ち寄りが原則で、友だちは3品も持ってきたから食べきれないほどだった。

 私は自分が食べたいと思った「イワシの照り焼き」を作った。ちょっとイワシが大きかったので、半分以上が残ってしまった。酒は友だちが持ってきた1升と我が家が用意した720mlを3人で空けた。今朝は二日酔いかと思ったが、意外にちゃんとしていた。そう言っても、目を覚ましたのは午前10時過ぎで、しかもお昼を食べてまた眠ってしまった。

 盆過ぎに蓼科高原に別荘を持っている友だちの大学の先生に誘われ、私は上記の友だち夫婦とカミさんを乗せて出かけた。先生夫婦は彼とカミさんの4人でゴルフをする計画だったので、ゴルフをしない私は友だちの妻とふたりで諏訪湖周辺の美術館を巡るつもりでいた。ところがあいにくの雨で取りやめとなった。

 「先生があれだけゴルフをやりたいようだったから、いつかやりましょう。一段落したら先生の所へうまい酒を持って行き、また飲みましょう」とご機嫌な計画まで立てている。誰でも受け入れ、楽天的で、人がいいからみんなに慕われる。「人生、来る者は拒まず、去る者は追わず」が口癖だが、お調子者なのに頑固な面もある九州男子だ。

 長くお付き合いが続いてきたのも、威張ったり馬鹿にしたりする人がいなかったからだろう。カミさん連中は控えめでよく働き気が回る。男たちはそんなカミさん連中の手のひらで踊らされている。夫婦であるが互いに干渉しないというか、相手にされていないのもグループの特徴かも知れない。男たちに言わせれば「そう振舞っているだけ」なのだそうだが…。

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メナード美術館の「田渕俊夫」展

2017年09月06日 17時04分04秒 | Weblog

  小牧市のメナード美術館で開催されている『田渕俊夫展』を見てきた。田渕さんの作品を初めて見たのもメナード美術館だった。その時、たまたま館内で、短歌を嗜み、教育委員でもあった農協の組合長に出会った。その人は、「東山魁夷、平山郁夫の次はこの田渕俊夫だよ」と教えてくれた。田渕さんは長久手の愛知県芸大の教授でもあったから、その縁でメナード美術館での展示なのかと思ったら、「メナードはもう前からこの人に目を付けていて、作品もかなり買い上げている」とも小声で言う。

 確かに田渕さんの日本画は斬新で、緑の使い方がうまい。東山さんが青、平山さんが茶、田渕さんは緑とはっきりしている。日本画を描いたことはないので、よくこんなに繊細な筆使いができるものだと感心してきたが、その秘密も分かった。私が学生だった50年前は、写真のような色合いを出すための技術は「ぼかし」だった。金網の上で、絵の具を付けた筆をこすって、描いていくものだったが、その当時でもエアーコンプレッサーで吹き付ける手法の人もいた。大学にはエアーコンプレッサーはまだ置いてなかったから、私はもっぱら金網を使っていた。

 細い線が繊細なのはOHPで拡大するからだということも分かった。私たちの頃は、下描きができたらそこにグラフ用紙のように線を引き、大きなキャンパスにも同じように線を引いて描いた。さらにトレス紙で写し、布や紙などに転写した。OHPを使えば、キャンパスにそのまま映せるから誰でも描けるけれど、最後の仕上げはその人のデッサン力がものを言う。

 私はお金のかからないデザインを選んだが、自分の性格では日本画の方があっていたのかも知れないと最近は思う時がある。日本画は絵の具も筆も高額で、しかも茶道や華道のような上下があり、自由さに欠けるという先入観が当時の私にはあった。大学にも日本画を教える先生はいなかった。人の巡り合わせとはこんなものなのだろう。どこで誰と出会うか、その時の置かれた状況などで変わってしまう。

 運命のようだが、その時その時で、知らず知らずのうちに選択してきたことは確かだ。だから逆に運命なのかも知れない。

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私たちはケント・ギルバートさんより先を進んでいる

2017年09月05日 17時14分22秒 | Weblog

  弁護士でタレントのケント・ギルバートさんが、「日本は世界の中でも類い稀な、興味深い歴史を作り上げてきました。それに対して愛着を抱き、恋心を抱くということは、誰がなんといおうと、一人ひとりの心に湧き上がって当然の、自然の感情なのです」と言い、「日本人はそろそろ、愛国心についての誤解を正し、非常識で信じがたいタブー感覚から解き放たれるべきでしょう」と諭す。

 「日本が好きですか?」と問われれば、「はい」と答えるのに、「愛国心を持っているのですね?」と聞かれると、素直に「はい」と言えないのは戦後政策のためだと、ケントさんは指摘する。「愛国心」という言葉に、私も共鳴できないものがある。おそらくそれはケントさんが指摘するように戦後政策の影響であることは間違いない。

 けれど私は、「愛国」に留まることを「OK」としない。「自国の利益」ばかりを求める価値観こそ捨て去るべきだと考えている。そういう点で、「日本が好きなら愛国心を持ってもいい」という次元を超越していると自負している。私たちの世代の多くの日本人が「日本は好き、でも愛国心は持たない」とする態度は、星条旗に1点の曇りもないと考えるケントさんには理解してもらえないだろう。

 アメリカの独立宣言は歴史的にも意義深い。けれど、その理想はいつの間にか血で汚されてきた。原住民のインデアンの土地を奪い、アフリカから黒人を拉致し、奴隷として働かせてきた。日本に原子爆弾を投下した。「自由と正義」の国と誇ることのできない歴史があることに、アメリカ人の多くは無頓着だが、私たち日本人は事実を見て、その先を模索している。

 アメリカは世界の警察官を自認してきた。けれど、その「法」はどこにあるのか。アメリカに敵対するものを軍事力でねじ伏せてきたが、どうしてアメリカだけが正義なのか。アメリカによって殺された人々の自由と人権はなぜ無視されるのか。こうしたことに目を向けないケントさんから、「日本は長い歴史に育まれた高い美意識と深い文化のある国」と褒め称えられても、私にはうれしくもない。

 私たち日本人は、申し訳ないけれど、かなり先を歩んでいる。子や孫たちにそれをキチンと伝えられているのか、心配している。

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「ウフフ」と笑えば、「いいフウフ」になれる

2017年09月04日 18時07分21秒 | Weblog

  秋篠宮の長女眞子さまと小室圭さんの記者会見をテレビで観て、微笑ましく思った。25歳といえば私はもう結婚していたので、あんなにも初々しいというか、清々しいというか、観ている私の方が照れ臭かった。「結婚するまで手を握ったことがなかった」と子どもたちに告白した時、「バッカみたい」と軽蔑されたが、それが普通だと思っていたからに過ぎない。

 それにしても日本人は皇室が好きだ。私は「天皇制を廃止せよ」とは思わないが、人権のない天皇が気の毒だと思うし、天皇が「一般人になりたい」と言われるなら、そうされるのがいいと思う。権力のない象徴に祭り上げられ、自分の意思を表すこともできないのは苦痛以外の何物でもない。歴史の経過がそうさせている訳だが、「自由になりたい」のであれば、それでいいのではないかと思う。

 皇室の伝統に従いながらも新しいカップルの誕生に、国民の多くが喜びを共有したことだろう。それでもヒネクレ者は「小室さんが太陽で、眞子さまが月か。なかなか美しいたとえだがちょっと心配もある」と言う。「えっ、どうして?」と聞けば、「月は満ちたり引いたりする。いいことばかりじゃーないということさ」と答える。

 まあ、夫婦なんてどこも同じ。いい時ばかりが続く訳ではないから、小室さんも眞子さまもそんなことは充分承知のことだろう。日本語は言葉の使い方が豊かなので、「慎重」でなければならないが、そういう点では今、トランプ大統領こそ「慎重」であって欲しい。「北朝鮮に対して武力攻撃はあるのか?」と聞かれ、「今に分かる(We will see)」と答えていたが、武力攻撃もあり得ると思えた。

 私の英語力では怪しいが、英語にもあいまいな表現があるようだ。昔、酒が飲めるようになったばかりの頃、居酒屋で歌ったことを思い出す。「松の木ばかりがまつじゃない あなた待つのもまつのうち」。松と待つをかけたものだ。都々逸にも「松といふ字を分析すれば きみとぼくとの差し向え」とある。松の右は「公」で「きみ」と読めるし、左の「木」は「ぼく」と読めるからだ。

 こんなダジャレに「ウフフ」と笑ってくれれば、「いいフウフ」になれるはずだ。

 

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2学期が始まった

2017年09月03日 18時04分55秒 | Weblog

 2学期が始まったのは1日。今日は3日で日曜日だから、始業式が行われただけでまだ授業は始まっていない。夏休みの宿題も、始業式に提出できなくても、「忘れました」と言ってこの3日間でやることもできる。小2の孫娘はかなり早い段階で、「宿題終わったよ」と言っていたし、「絵日記のため」に家族で大阪のユニバーサルスタジオへ出かけたようだが、どんな絵日記を仕上げたのだろう。

 長女はカミさんにラインで、「学校大好き、友達大好き、元気そのもの」と孫娘の様子を伝えてきている。学校が大好きなのは長女ゆずりだ。誰とでもすぐ仲良しになるところも長女と似ている。長女は仲間外れになりそうな子の面倒をみたり、おせっかいなほどの世話焼きは昔も今も変わらない。子どもの頃から成長していない私と違い、社会的な地位にある大人としての自覚を強く持っている。

 私たちの子どもの頃は、戦争直後の復興へと向かっていた時代で、新しい価値観と戦前の価値観とが入り乱れていた。教師の中にも「予科練崩れ」を自称していた人もいたし、新しい教育に情熱を燃やす人もいた。景気がよくなっていくように見えたが、同時にストライキも行われていた。私の家の南にトヨタの重役の家があり、ある日、道路が赤旗を掲げ、労働歌を歌う大勢の人たちに占拠された。私が初めてストライキを見た時だった。

 大学に入っても、私の在校中は1度もストライキはなかった。民青の人たちが自治会の役員を続けていたが、2年の時、反民青で執行部を占めたことがある。役員だった私は「全校ストライキを」のチラシを作ったが実現しなかった。大学4年の時は1年近く東京で働いていたが、大学封鎖のようなストライキはなかった。大学の前には大きな看板が置かれていたが、激しいのは言葉だけだった。

 私は小学校の時に1度、登校できなかったが、中学、高校と自分の活躍の場が広がり、朝早くから登校するくらい学校が好きになっていた。小2の孫娘はこれから一回りも二回りも大きくなっていくだろう。「人に優しく」なってくれれば何も言うことはない。

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ここ辺りで、武器のない社会へすべきだろう

2017年09月02日 17時51分37秒 | Weblog

  「防災の日」、各地で「訓練」が行われた。地震を想定したもの、水害を想定したもの、様々だった。中には北朝鮮からミサイル攻撃を受けた時に備えての訓練もあった。地震の時のように机の下に潜り込む、あるいは身体を丸めて座フトンで頭を保護する、そんな映像だった。核ミサイルが飛んで来たらもう逃げ場はない。頑強な地下シェルターでもなければ人は生き残ることはできないだろう。

 それはもう、田中慎弥さんが『美しい国への旅』で描いている世界で、地上に生物は存在していない、「死の灰が立ち込めている」だけだ。防護マスクが無ければ人も馬も生きていけない。食べるものも飲むものもない。どこかでひそかに作られた人工物を吸って生きながらえている。実際に核戦争になれば、こんな世界になってしまうだろう。

 「北朝鮮がミサイルを飛ばすと宣伝する必要がアメリカにはある」と友人の大学教授は言う。「トランプ大統領がアメリカの車を日本は買わないと非難するが、日本でも欧州車は売れている。それがなぜか、彼は分かっていない」と友だちも口を揃える。「政府が北朝鮮のミサイルに対して、防御システムに巨額の税金を投入しても国民は納得する。すでにイージス艦を2隻購入する方針だ。防衛費は膨張しているが、いっそうこの傾向は強まる」。「そこで儲かるのはアメリカの軍需産業で、自動車の比ではない」。

 人は本当に愚かしい。彼らキリスト教徒は、「隣人を愛しなさい。右の頬打たれたら左の頬を出しなさい。貧しい人に分け与えなさい」と唱えてきたのではないのか。私は聖書に記されたキリストの言葉に人類が歩む道を教えられたが、私よりももっと小さな時から聖書に触れてきたであろうアメリカの指導者たちは、どうして自己矛盾に気が付かないのだろう。

 「アメリカは寄せ集めの国だ」と卑下して言う人もいるが、最初にアメリカに渡った人々は信仰の篤い、自由と平等を理想とする社会を目指した。けれどもイギリスの支配下から独立するために、武器を持って戦う歴史を選んだ。武器で戦うことで新しい社会を獲得したから、「身を守る・国を守る」ためには武器で戦うことに全く矛盾を感じていないのだ。キリスト教はただ仲間であることの証に過ぎなくなった。

 もうここ辺りで、武器を持たなくていい社会にすべきだろう。キリストもそう願っているはずだ。

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サッカーのW杯予選と高校野球の甲子園大会と

2017年09月01日 17時22分09秒 | Weblog

  サッカーのW杯アジア最終予選で、日本はオーストラリアに2-0で勝ち、6度目の出場を決めた。これまでオーストラリアには1度も勝っていなかったので心配だったが、日本チームの方が押し気味だったから、「勝てるかも知れない」と思えてきた。まず1点を先取し、もう1点取れれば勝利は間違いないと願った矢先にきれいなシュートが決まった。

 私の高校はサッカーが盛んで、体育の時間の多くはサッカーだった。私は体操とサッカーが好きだったが、サッカーは格闘技のように荒っぽい。メガネをかけている身としてはぶつかり合うのは避けたいが、在校中に2度ほど新しいメガネを買わせることになり、「金のない」父に申し訳ないことをしたのに、口では言えなかった。

 今年の高校野球・甲子園大会は実に面白かった。サッカーなら2点も差があればまず逆転されることはない。ところが今年の大会はどうなるのか、最後の最後まで分からなかった。9回表に満塁ホームランが出て、これで決まったと思ったら、その裏にまたしても満塁ホームランが飛び出し同点。延長戦へともつれ込むから、ハラハラドキドキで目が離せなかった。

 サッカーと野球は同じ団体競技なのにずいぶん違うのはどうしてなのだろう。サッカーだって逆転勝利の試合がないわけではない。劣勢だったチームが最後の何分間に得点を重ねることだってある。最後の決定力は個人の能力に負う点ではサッカーも野球も変わらないが、サッカーはアシストがうまくいくか否かという、チームプレイの果たす役割が野球よりも大きいように思う。

 今日、民進党の代表を選ぶ選挙が行われ、前原誠司さんに決まった。一番ホッとしているのは安倍首相だろう。何しろ前原さんは憲法改正論者でもある。そもそも民進党はどういう政党なのか。何を目指す政党なのか、はっきり示さないままに「自民党ではいけない」とだけ言ってきた政党のように思う。憲法第9条を守るのか、変えるのか、原発をやめるのか、存続させるのか、どういう立場の人々の声を代弁するのか、基本的な政策が見えなかった。

 人々が求めているのはハッキリした政策である。それが見えなくては選択することができない。大逆転などありえないから、地道にコツコツと、日本をどういう国にするのか、世界平和にどう立ち向かうのか、政策を示す政党が生まれて来なくては先は暗い。

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