中学からの友だちはブログに、「私は最近、つくづく思うのは、最後の恋の相手はやはり回り回って、痒いところに手の届く、おせっかいで世話好きな女房だと確信するようになった。今では恥ずかしげもなく、私はそのことを口に出して女房に告げている」と書いていた。恋多き男もとうとう仙人のような境地に届いたようだ。
歳を重ねても、彼のように初恋の人の幻影を追いながら、カミさんを愛おしく思う人は稀であろう。どういう訳かは分からないが、長い間一緒に暮らしてきたのに、未だに何を考えているのか分からないと嘆く夫婦は多いし、言うこととやることが違うので、黙って気付かないようにして平和を保っている家庭もある。分かり合えないのが夫婦と言い切る人もいる。
17日の中日新聞の『介護・シニア』欄は「伝える工夫」がテーマで、国木田独歩が妻に送った手紙を紹介していた。「酒一合で刺身、牡蠣の田楽焼きで飯を食ったが美味くなかった。ころりと寝転んで見たが面白くも可笑しくもない。そこで紅茶を入れて飲んで見たが、内で飲ましてもらう程美味くない」と愚痴を並べ立てている。昔の男性は「愛していると言ったら負け」であったから、「きみがいないとすべてつまらん。寂しい、会いたいよ」と伝えていると解説していた。
その向かい側のページには、『つれあいに物申す』という欄がある。そこに、「夫は88歳、妻の私は86歳。とうの昔に定年退職した夫に対し、私は現役のおさんどん。朝食が済めば『昼飯は?』、昼が終われば『夕飯は?』。そのせりふ、私に言わせて」とあった。また、カミさんへの思いやりが間違っていたようで、「『今日はお前の誕生日。〇〇へ行こう。☓☓を食べよう。△△を買おう』。全部あなたの好きなもの。挙句の果てに『昼は家で食べる!』と言う」というものもあった。
国木田独歩の手紙を読んだカミさんは、独歩が寂しがっていると理解したのだろうか。「まあ、結構いいもの食べているじゃーないの」と思ったりしなかったか。会話が少なかった昔の方が逆に、相手を思いやることができたのかも知れない。こんなに情報量が多いと、とんでもない解釈をしてしまう人がいないとも限らない。