友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

伝えることの難しさ

2019年04月18日 17時26分56秒 | Weblog

 中学からの友だちはブログに、「私は最近、つくづく思うのは、最後の恋の相手はやはり回り回って、痒いところに手の届く、おせっかいで世話好きな女房だと確信するようになった。今では恥ずかしげもなく、私はそのことを口に出して女房に告げている」と書いていた。恋多き男もとうとう仙人のような境地に届いたようだ。

 歳を重ねても、彼のように初恋の人の幻影を追いながら、カミさんを愛おしく思う人は稀であろう。どういう訳かは分からないが、長い間一緒に暮らしてきたのに、未だに何を考えているのか分からないと嘆く夫婦は多いし、言うこととやることが違うので、黙って気付かないようにして平和を保っている家庭もある。分かり合えないのが夫婦と言い切る人もいる。

 17日の中日新聞の『介護・シニア』欄は「伝える工夫」がテーマで、国木田独歩が妻に送った手紙を紹介していた。「酒一合で刺身、牡蠣の田楽焼きで飯を食ったが美味くなかった。ころりと寝転んで見たが面白くも可笑しくもない。そこで紅茶を入れて飲んで見たが、内で飲ましてもらう程美味くない」と愚痴を並べ立てている。昔の男性は「愛していると言ったら負け」であったから、「きみがいないとすべてつまらん。寂しい、会いたいよ」と伝えていると解説していた。

 その向かい側のページには、『つれあいに物申す』という欄がある。そこに、「夫は88歳、妻の私は86歳。とうの昔に定年退職した夫に対し、私は現役のおさんどん。朝食が済めば『昼飯は?』、昼が終われば『夕飯は?』。そのせりふ、私に言わせて」とあった。また、カミさんへの思いやりが間違っていたようで、「『今日はお前の誕生日。〇〇へ行こう。☓☓を食べよう。△△を買おう』。全部あなたの好きなもの。挙句の果てに『昼は家で食べる!』と言う」というものもあった。

 国木田独歩の手紙を読んだカミさんは、独歩が寂しがっていると理解したのだろうか。「まあ、結構いいもの食べているじゃーないの」と思ったりしなかったか。会話が少なかった昔の方が逆に、相手を思いやることができたのかも知れない。こんなに情報量が多いと、とんでもない解釈をしてしまう人がいないとも限らない。

 

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きっとそれで充分だった

2019年04月17日 18時32分20秒 | Weblog

 施設にいる姉を見舞いに行ってきた。今日は顔色もよく肌もきれいだった。私をお父さんと間違えたこともあったのに、「弟」と呼び棄てられた。妹は姉とは16歳も年が離れているので、「子どもの頃は知らなかった」と姉のことを言う。我が家が倒産し、妹は高校を卒業して結婚するまでの間、姉のところで暮らし、姉がやっていた喫茶店を手伝った。

 姉は女手ひとつで娘を育て妹の面倒をみてきたが、余りクヨクヨと悩むタイプではなかったと思う。なんとかなると前向きというか、先の心配をしない人だった。姉には人のいいパトロンがいて、かなり世話になったようだが、詳しいことは知らない。私が大学4年の時、12月末まで働いていた会社の下宿に残してきた私物を引き取りに年明けて東京まで行ったが、その人がクラウンを手配してくれた。

 これまで一度も口にしたことがなかった姉が今日は、「もうすぐ死ぬでね」と3度も言った。そんな予感がするのだろうか。施設に来る車の中で私が、「姉さんの見舞いが無ければ車を運転することも無い。姉さんが逝ってくれたら免許は返上したい」と話していたので、姉の言葉に義弟もビックリしていた。私が先に逝くようでは具合が悪いから、出来れば本当にそうなって欲しい。

 昨日は私の誕生日であるが、川端康成氏の命日でもある。1972年4月16日、川端氏は亡くなった。確かガス自殺だったと思うが、事故という説もあった。川端家で運転手もして世話をしていた女中(?)さんが、辞めたことで自殺したという説もあったが、この歳になるとこちらの方が真実ではないかと思えてくる。川端作品は『眠れる美女』しか熟読していない私にはそんな気がする。

 女性への思いは執拗で偏執でもある。手足への愛着がとても強いものがある。若い頃は川端作品は情緒的で社会性に欠けるから興味なかったのに、年老いた今はとてもよく分かる。『眠れる美女』のように、ただただ人肌が恋しくてならない。川端氏は1968年にノーベル文学賞を受賞し、それからわずか4年の72歳で亡くなった。自殺でも事故でも、きっとそれで充分だったはずだ。

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75歳の誕生日を迎えて

2019年04月16日 16時44分34秒 | Weblog

 とうとう75歳の誕生日を迎えてしまった。こんなに長生きするとは思いもしなかった。31歳の時、内ゲバの余波を受けて滅多打ちにされ、九死に一生を得て翌年に教師を辞めた。教師を辞めた人間を雇ってくれるところは無い。叔父の日本料理の店を手伝ったり、歯科技工の仕事をしたり、悶々とした日々が続いた。

 司書資格を得るために通った小牧市の図書館で、地域新聞を目にして会社を訪ね、雇ってもらった。けれど自分が作りたかった新聞とは違っていた。41歳の時、自分で地域新聞を作ろうと思い立ち、見本となる新聞を切り貼りして作り、趣意書を書いて地域を回った。幸いなことに前町長のふたりが賛同してくれた。

 新聞の販売店の社長との共同経営で、地域新聞の発行に辿り着いた。5年間は記事も写真も割り付けも広告集めも、ひとりで行った。自分の家を事務所にして、カミさんを職場へ送って行った後で取材に行き、また職場へ迎えに行き、空いた時間に記事を書いた。新聞はコラム欄が充実していたので人気が高く、広告収入は増え続けた。

 販売店が社屋を一新した時、3階の倉庫を事務所に当てられた。広告は集まっても集金ができなくて、人を雇うことにした。働きたいという女性を社長が見つけて来て、スタッフが充実したので、大学公開講座を企画したり、冊子を発行してさらに売り上げを伸ばした。10年続けてきた地域新聞を辞め、首長選挙に立候補して敗れ、参議員秘書や編集の仕事など、多くの人に助けてもらった。

 地方議員を10年務め、再び首長選挙に立候補して敗れ、市民活動に引き込まれ、10年間50回市民講座を企画・運営してきた。私は本当に周りの友だちに恵まれた。やりたいことを私なりに充分にやった。悔やむことは何もない。できることなら、次の誕生日を迎える前までに「さようなら」がしたい。生きていることは恥を重ねるばかりだ。そろそろ、終わりにしたい。最後に恋ができれば、こんな贅沢はない。

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上野千鶴子さんの祝辞に共感する

2019年04月15日 18時35分22秒 | Weblog

 今朝のテレビ『特ダネ』で、東大入学式での上野千鶴子名誉教授の祝辞を取り上げていた。私は聞いていて、さすがは上野さんだと思った。私たちの市民講座の講師を快く引き受けてくれた時も嬉しかった。間近で話してみて、率直な人柄を感じた。祝辞もまた率直で、学者として新入生に贈るにふさわしい言葉だった。

 女性差別が存在すること、世の中は理不尽で不条理であること、東大に合格できたのは必死になって勉強した結果であるが、実は恵まれた環境にあること、努力をすれば報われるというのは自己責任論で、努力ができない人もいること、合格できた能力を、努力しても報われないあるいは努力できない人のために使って欲しいと述べた。

 「あなたたちは世界のどこへ行っても生きていける。そんなあなたたちの能力を恵まれない人のために役立ててください。入学おめでとう」と結んでいた。上野さんは全共闘が暴れていた時代、京大で男子と一緒に戦っていた。デモを終え、アジトへ戻ると、男子は女子にお茶を入れるように頼む、平等な社会を目指しながらこれはおかしいと上野さんは思った。

 ジェンダー論を課題にするきっかけである。私は彼女より年上だが、そういえばデモなどの後はなぜだかそんな光景だった。女子を守るのが男子という意識が残っていた。だから闘争から外れると家庭の中の男女の役割を受け入れてしまっていた。同じ仲間なのに、戦闘的でない者を見下げバカにした。それで何が平等な社会の実現だと今は思う。

 革命の側であったのに、理不尽なことが横行していた。理想論を掲げながら不条理なことばかりだ。社会は理不尽で不条理に満ちている。だからこそ、改めたいという気持ちになる。きっとどこまでいっても、その繰り返しなのだろうと思う。「おかしい」と思うことを変えていく、その努力はいつも必要なのだ。

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働き方改革は労働時間の短縮から

2019年04月14日 17時18分33秒 | Weblog

 冷たい雨の中、少年野球チームが練習をしている。子どもたちは大きな声をあげて頑張っている。エライなと思う。根性なしの私なら、「コーチ、止めていいですか」と言ってしまいそうだ。小雨でも試合が行われるから、そのための練習なのだろう。今のコーチならきっと、「止めてもいいよ。これからはもう、練習に来なくてもいいから」と言うだろう。

 私は子どもの頃、夏休みに子ども会のソフトボールチームに参加していた。希望とかではなく、小4か5になると無理やりにやらされた。運動が嫌いなわけではなかったし、兄貴とキャッチボールもしていたから、チームに参加することには抵抗がなかった。練習が終わった後、コーチの家でアイスキャンデーが食べられることに惹かれたのかも知れない。

 コーチは若い人で、とても私を可愛がってくれた。江戸時代から続く伝統の夏祭りに参加するように言ってくれたのもコーチだった。コーチの家は雀荘だったが、今はもうない。今日の雨の中で教えているコーチたちには、いくらかの謝礼が出ているのだろうか。好きなこととはいえ、無償なら厳しすぎると思う。

 働き方改革が進められている。小学校の時だと思うが、「工場のオートメイション化が進み、これからは大量生産の時代になる」と先生は言っていた。大量生産で製品は安くなり、「お前たちのお父さんの休みも多くなる」と先生は予言していた。ところが、1日8時間労働は一向に変わらない。むしろ昔に比べて「過労死」する人がいる。

 機械化が進み、AI化が進み、なのになぜ人間の労働時間は短縮されないのだろう。工場を維持するために1日8時間労働が必要なら、せめて1週40時間と改定し、働く人の自由時間を増やすことは出来るはずだ。週に2日間の休みなら、今と大して変わらない。変則勤務の人にはもう少し自由時間を増やしてもバチは当たらない気がする。休みの日に、好きなことができるのはとてもいいと思う。

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ジジババのコーヒータイム

2019年04月13日 17時21分48秒 | Weblog

 桜の花も舞う春だというのに肌寒い。昼からは日差しもあって暖かくなったが、午前中は空気がひんやりしていた。友だちがチューリップを見に来てくれたが、1枚羽織るものが必要なくらいだった。椅子に腰かけて目線が下がると、チューリップの群生がますます見事に見える。「立派に育ったんじゃないの」と褒め、「ここまでにするまでの苦労は相当なものね」と労わってくれる。

 「寒いから、中でお茶にしましょう」とみんなを部屋に招く。最近、ケーキ作りに凝っているという友だちが持って来てくれたアップルパイを食べながら、いつものように延々と話が続く。ダンナが仕事を辞めて、「さあ―これからふたりで楽しみましょう」という時に、カミさんが引き籠りになってしまった私の同僚は、意外に自分に原因があると気づいていかなかったことなど話す。

 夫婦であれば、いろんなことがある。多くの場合は笑い話で終わってしまう。どこの家庭だってそれぞれに問題は抱えているはずだが、「そんなものよ」と片付けられるなら、それ以上に深刻にはならない。けれど片方が潔癖症であったり完璧主義者であったりして落ち込むが、相方は自分に原因があるとは思わないから、なかなか解決に至らない。

 息子を別居させた母親、娘が家に来ないと嘆く母親、「大人になった子どもにまで構う必要はない」と断言する父親、戦争や私たちの子どもの頃の物のない話からその後の、どんどん豊かになってきた中での子育てなど、途切れることなく話が続いた。編み物教室を開いてきた友だちが、「昼間だけでなく夜間もやってたから、子どもにかまっていられなかった」と言う。

 我が家も私に収入がない時期が何年かあったから、カミさんの苦労は大変だっただろう。子どもたちも不平を言わずグレることもなく、よく育ってくれたと思う。その期間の長女とのやり取りのノートを見ると、「親はなくても子は育つ」という諺が浮かんでくる。子どもたちは子どもたちなりに、精一杯に生きてきたのだろう。いつかこのノートを見せてやろうと思う。泣くよりも笑ってしまうかも知れないが‥。

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「呑舟之魚」「多岐亡羊」

2019年04月12日 17時38分25秒 | Weblog

 大学で経営を教えていた先生とそのカミさんが、チューリップを見に来てくれた。先生の家はかつて神田明神で花屋を営んでいたそうで、2色のチューリップを眺めて、「こんな色のチューリップは売ってなかったなあ」と言われる。「最近、流行りのチューリップです」と説明すると、「新発売の時はかなりの値段になっていただろう」と推測する。

 太平洋戦争が始まった昭和15年12月、明神の境内でラジオ体操が行われるというので、大勢の人が集まっていた。その時、真珠湾攻撃のニュースが流され、境内の人々はバンザイと叫んでいたと言う。そんな子どもの頃だったから、勉強はしなかった、あるいはできなかったのだろう。「大学に入っても真面目に勉強しなかったので、これはイカンと思いやり始めた」ことが、結果として大学の先生になったようだ。

 大学の先生になっても家に居ることが多かったので、「お宅のご主人は何しているの?」と近所の人によく聞かれたそうだ。カミさんの方は私と同じ歳だが、18歳の時から和歌を作っていて、それを編集して本にする準備をしている。「私より言葉をよく知っている」と先生は称えるが、18歳から歌を詠んでいるのだから言葉は豊富なのだろう。

 4文字カレンダーに、「呑舟之魚」というものがあった。舟を呑み込む大きな魚と訳せるが、常人の常識では計りきれない大人物のことだ。「多岐亡羊」というものもある。道が多くに分かれていて、逃げ出した羊を見つけられないという訳になるが、学問の道は末節にとらわれず、根本を追い求めなければ真理に到達できないという意味で用いられる。

 私は中国人の思考は凄いと思う。文字は形象文字から始まっているが、ヨーロッパでは発音を表すことに使われたから、民族が違っても言葉は伝わったのだろうか。東アジアは漢字を用いたが、発音は全く違った。文化を理解する上で、言葉の壁は大きいが、今は直訳する道具がある。意思が伝われば、友だちも増えるだろう。

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桜田五輪大臣の辞任

2019年04月11日 17時21分13秒 | Weblog

 何ということか、せっかく晴れたのに強い北風が吹いていて、ルーフバルコニーのチューリップの花は皆、南に向いて頭を下げている。明日、明後日と友だちがチューリップを見に来てくれるのに、これではかなりの花が傷ついていそうだ。自然には逆らえないから、そっと風が収まりますようにと願うしかない。

 昨日は雨の中を3羽のツバメが飛んでいた。何時まで飛び続けるのだろうと思いながら眺めていたが、同じところを1時間くらい飛んでいた。餌になるような虫でも飛んでいるのだろうか。それにしてもあれだけのスピードでよく飛び続けることができるものだ。ツバメが巣に近づく猫に向かって急降下を繰り返すのを見たこともあるが、操作間違いを起こすことはないから不思議だ。

 桜田五輪大臣が辞任した。岩手県の自民党議員の応援で、最後に「復興以上に大事なのは高橋さん」と言ってしまい、「被災者の気持ちを傷つけたから」と辞任したのだ。演説の最初のところで、「いよいよ乾杯という時に、(私が出てきて)ガッカリしているのでは」と言い、「私もガッカリという言葉は禁句なんです」と言って聴衆の笑いを取った。

 ここで笑う人たちもどうかしている。選手の病気を心配せずに、メダルが減ってしまうことを気にした情けない発言だったのに、それを笑いのネタにしたことは、桜田さんは何も反省していない証左である。一緒に笑ってしまう会場の人たちも選手のことなど気にしていないのだ。笑いを取るのは演説の手法なのだろうが、あまりにも人間性に深みが無さ過ぎる。

 地元では気さくないい人と言われているようだが、国の進むべき道を決める立場の国会議員は、いい人だけではダメだ。どうして主義主張がぶつかるような論戦が国会で見られないのだろう。野党の質問は揚げ足取りばかりで、質問から何を引き出そうとしているのか分からない。7日に行われた統一地方選挙の投票率は44%程しかないし、低いところでは30%台である。

 「誰がなっても何も変わらない」と言っていた人がいたが、その通りだろう。有権者に希望が見えてこないのだから、投票場へ出かけても仕方ない気持ちになってしまう。どうしてこんなに憂鬱な時代になってきたのだろう。

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親と子そして夫婦

2019年04月10日 17時27分50秒 | Weblog

 母と娘、父と息子は、どういう訳か心を開き合えないようだ。誰でもがそうだとは思えないが、そういうケースがある。彼女は子どもの頃、おとなしくて人前に出ることができなかった。小学校でも積極的に手を挙げる方では無く、ぼんやりと運動場を眺めていることが多かった。テストを受けても真剣に考えることの大切さを低学年の頃は知らなかった。

 消極的で成績のよくない彼女を何とかしたいと思っていた母親に、「この子は可愛いから子ども劇団に入れたら」と言う、知人の言葉は神の啓示であった。ダンスや歌は嫌いではなかったし、学校のように画一的な指導ではなかったから、彼女自身も劇団が好きだった。けれども友だちを差し置いて目立とうとする積極性は育たなかったから、主役になることはなかった。

 学校の成績は上がらず、劇団の主役にもなれず、可愛い顔だけの我が子に母親は、「あなたは何をしてもダメな子ね」と嘆いた。母親は友人に、「この子は少しも心を開かない」とボヤいたと言う。「そんな暗い子なの?」と私が聞くと、「ウチに来る時はとても明るい笑顔の素敵な子で、私が頼む前に気が付いて何でもやってくれる子。きっと、お母さんにも認めてもらいたいんだけど、どう表現していいのか分からないのだと思う」と答える。

 昔気質のお父さんは、「ケンカしたっていいが、悪いことだけはするな」と息子に言い聞かせてきた。その息子が友だちのピンチを救うために家の金を持ち出した。それを知った父親は理由を聞く前に、息子の頬を思いっ切り叩いた。以来、息子は決して父親に逆らわず、父親と会話をしなくなった。父親はそれを、息子が「親の権威を認めているからだ」と言うが、私には逆らっても無駄だと思っているようにしか見えない。

 親子が分かり合うのは意外と難しい。親は子に、こうあって欲しいと期待が大きいし、子は親に、何をどう話していいのか分からない。それが親子というものと思ってしまえば幾分気が楽になる。ましてや他人である夫婦は更に難しいように思うが、なのに意外と何十年も一緒に暮らせるのだから不思議だ。

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煽り運転と認知機能検査

2019年04月09日 17時12分10秒 | Weblog

 喫茶店で若い男がふたり話していた。その喫茶店はいつも私たちが利用する「年金喫茶」とは違い、どことなく小ぎれいで客も若い人が多い。「この前、煽られちゃってまいったよ」と切り出し、「いつもは車を修理に出したんで代車の軽だったんだけど、そんなにノタノタ走ってた訳じゃないのにバカにしてさ、頭にきたからわざとスピードを落として走ってやった」と続ける。

 相方が「お前の運転怖いもんな。スゥ―と出たり、メチャ落としたり、いつもヘンなリズムで、乗せてもらう時は緊張するよ」と言う。「そうか、そんなことないのにな。軽だったからわざと煽ってきたんだよ。やっぱり軽だとやられるね」と弁解して言う。相方も「オレも煽られたことがある。危ないじゃーないかと思って先に行かせて、その後ろについて煽ってやった。そうでもしないと分からん奴らだ」と粋がっていた。

 ふたりは事故にならなかったからこうして話していやれるが、煽られたからとわざとスピードを落としたり、逆に煽りかえしたりすれば、事故になることだってある。信号で止まられるのが嫌いで脇道へ回る人がいるが、私は時間がかかっても王道を進む方だ。交差点で車が来なければ赤信号でも渡ってしまう人がいるが、私はアホのように青になるまで待つ。体制には反発心を抱いても、ルールはルールと受け止めている。

 75歳から受けなければならなくなった「認知機能検査」を受けてきた。案の定、どこの教習場も満員で、やっと探して受けることができた。指定時間の30分前に着いたつもりだったが、既に何人もの年寄りがいた。時間になって教室に案内され、テストの説明を受けた。75歳からだから私が一番若い。中には名前を呼ばれてもトンチンカンな返事をする人がいるし、「指示するまで開かないで」と言われているのに、テスト用紙を開く人もいる。

 それで注意を受けた人は、「毎日運転している」と言うから怖い。同じ路上を、右も左も区別できないような人が運転していたり、「バカヤロー」と煽り運転する人がいる。もう、やっぱり運転したくないなあーと痛感した一日だった。

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