前回ブログで、日本は医療用品の多くも(エネルギーや食糧に加えて)輸入に頼る脆弱な産業構造を持つことが、コロナ禍で端無くも再認識され、国家の存立を維持するために対外関係が難しい立場に置かれるものであることをやや皮肉まじりに述べた。諸外国に依存することが恰も悪いような言い方になったが、もとより日本は資源小国で、狭い島国に過剰な人口を抱える国である上に、多様化し複雑化した現代社会にあっては、どんな国であろうと、何でも自力で賄うことなど容易ではないし現実的ではない、相互依存の時代である。今さらリカードの比較優位理論を持ち出すまでもなく、競争がグローバル化し、ピンキリの様々な国がうごめく国際社会において、それぞれの国は自ら比較優位な領域で勝負していくほかに生き残る術はない。そんな中で、日本にとっての不幸は、今や14億を超える人口を擁する発展途上の国・中国が、すぐ隣で経済的なプレゼンスを高め、その「磁場」に引き寄せられざるを得なかったことだろう。
かつて、プラザ合意後の円高基調、さらにバブル崩壊後の内需低迷で、日本の企業は生き残りを図るため、産業構造の転換を余儀なくされた。具体的には、生産技術を極めて世界第二の経済大国にのし上がる原動力となった「ものづくり大国」としての強みを維持しながら、製造コストを切り詰めるために、低廉で豊富な労働力を供給する中国と生産分業を行う、ぎりぎりの選択をした。そのため先端技術の開発機能や、トヨタに代表されるようにマザー工場機能を国内に残したが、結果として産業の空洞化は避けられなかった。それは豊かさの宿命でもあって、日本に限った話ではない。アメリカもその他の先進国も、そのコスト優位に引き寄せられ、いつしか中国は「世界の工場」と呼ばれるに至った。その中国では、かつて日本の地方から都会に出稼ぎに行く「民族大移動」が高度成長を支えたように、地方の農民が沿岸の経済特区に出稼ぎに行き「世界の工場」としての成長を支えた。因みに成熟したアメリカが今もなお成長を続けるのは、ヒスパニック系の移民が一種の植民地的な低賃金労働の供給源となり続け、経済のバランスを維持している側面があるように思う。
そんな中国でも、「中所得国の罠」を回避するため、かつてのドイツや日本を追って、産業の高度化に舵を切り始めた矢先のことだった。コロナ禍という未曾有の危機に直面し、一部の「モノ」への需要が高まり、分捕り合いが起こる事態に立ち至った。感染症が世界的に拡大するときに、まさか必ずしも高度とは言えない「ものづくり」が強い武器になろうとは、いかに中国共産党といえども想像できなかったに違いない。アメリカは、早速、朝鮮戦争が始まった1950年に成立した国防生産法を発動し(とは言っても、これまで既に50回近く発動し、戦争や自然災害と戦って来た)、GMやフォードが人工呼吸器の製造を始めている。そればかりではない。コロナ禍がイデオロギー対決を煽り、米中摩擦が激化することになって、トランプ政権はリスク分散のため、生産の中国外への移転や国内回帰を戦略的に進めようとしている。日本も、アメリカほどの規模ではないものの、医療用品をはじめとして、生産の国内回帰に助成金を出すことを決めた。
もとより、いったん確立された「世界の工場」としての立地の優位性は、そう簡単に揺らぐことはないだろう。電力・水道などのインフラや、港湾・空港などの物流ネットワークのほか、材料・部品などの産業や熟練労働力が集積し、時間をかけて発展を遂げて来た言わばエコ・システムを、東南アジアの国がおいそれと短期間に構築できるものではないだろう。しかし少し長い目で見れば時代の流れではある。
そもそも国際的な生産の移管は、かつて開発途上だったドイツや日本の生産技術が高まったことに始まった。今では信じられないが、その初期にはMade in Japan が(米国に比較し)「安かろう悪かろう」の代名詞とされた時代があったし、それ以前にはMade in Germanyが(英国に比較し)「安かろう悪かろう」の代名詞とされた時代があった。その日本が、開発途上の中国に生産を奪われる構図は時代の流れには違いないが、多少、皮肉な言い方をするならば、その地理的な近接性と文化的な近接性、まさに「地の利」がある気安さと、何より日本の10倍を超える人口を擁し、その労働供給力は無尽蔵とも言えるほどで、赤信号を皆で渡るように、ちょっと危ないかも知れないという危機意識を抑えながら、国際的コスト競争力維持のお題目のもとに、安易に生産移管を決定する傾向があったように思われる。そこには、鄧小平氏が改革開放に当たって松下幸之助氏に頼ったように、中国共産党による戦略的な「甘い誘惑」も働いた。「磁場」に引き寄せられると形容したのは、その意味だ。
今回のコロナ禍は、行きすぎたグローバル化への反省が高まる中で、頼るべきものが国家である現実を完膚なきまでに再確認させた。本来、国境を越えて広がる感染症は、環境問題と同様、国際協力が不可欠で、アメリカのような大国こそ国際公共的な役割を率先して負担して然るべきと期待されるところ、そんな余裕は微塵もなく、アメリカ・ファーストの流れはむしろ強まるばかりである。中国は大国として振舞いたがるくせに、アメリカ同様、コスト負担を引き受ける意思はなく、むしろ全ての行動は核心的利益の第一としての「中国共産党による統治」の正当性を示すことに収斂するため、情報隠蔽にせよ情報操作にせよ、権威主義的で閉鎖的な性格はすっかり信頼を喪失した。EUは公衆衛生に対処することがそもそも想定されていないため、EU加盟各国が個別に対応するほかなく、かつてシリア難民に対しては国境を開いていたのにコロナウイルスに対しては挙って国境を封鎖してしまった。本来、活躍すべきWHOは、別の意味で中国の「磁場」に引き寄せられ(笑)、公平性や中立性が怪しまれて、中国と同様、すっかり信頼を喪失した。
ポスト・コロナの時代は、全く新たな秩序が形成されると言うより、これまでの歴史の歩みが加速すると言われる。グローバル化への反動と、国家を中心とする国家主義とでもいうべきものへの揺り戻しはまさにそうだし、アメリカや中国の動きを見ていると、技術や経済だけではなくイデオロギー(あるいは体制のあり方)においてもデカップリングが加速して行く気配が濃厚であるし、身近なところではテレワークや遠隔医療やネット授業などITの利活用が進むきっかけになるのは間違いないところだ。そうであればこそ、3年前のフォーリンアフェアーズ誌で、プリンストン大学のジョン・アイケンベリー教授が、トランプ大統領の登場を受けて、これからのリベラルな国際秩序を守るのは、日本の安倍首相とドイツのメルケル首相の双肩にかかっていると期待を表明されたように、それぞれの国家の威信を守りつつも、同時に、治療薬やワクチンの開発で協働し、置き去りにされた発展途上国を救済するなど、国際協調を取り戻す、第三極としての日本とEU諸国に期待される役割は小さくないように思う。
かつて、プラザ合意後の円高基調、さらにバブル崩壊後の内需低迷で、日本の企業は生き残りを図るため、産業構造の転換を余儀なくされた。具体的には、生産技術を極めて世界第二の経済大国にのし上がる原動力となった「ものづくり大国」としての強みを維持しながら、製造コストを切り詰めるために、低廉で豊富な労働力を供給する中国と生産分業を行う、ぎりぎりの選択をした。そのため先端技術の開発機能や、トヨタに代表されるようにマザー工場機能を国内に残したが、結果として産業の空洞化は避けられなかった。それは豊かさの宿命でもあって、日本に限った話ではない。アメリカもその他の先進国も、そのコスト優位に引き寄せられ、いつしか中国は「世界の工場」と呼ばれるに至った。その中国では、かつて日本の地方から都会に出稼ぎに行く「民族大移動」が高度成長を支えたように、地方の農民が沿岸の経済特区に出稼ぎに行き「世界の工場」としての成長を支えた。因みに成熟したアメリカが今もなお成長を続けるのは、ヒスパニック系の移民が一種の植民地的な低賃金労働の供給源となり続け、経済のバランスを維持している側面があるように思う。
そんな中国でも、「中所得国の罠」を回避するため、かつてのドイツや日本を追って、産業の高度化に舵を切り始めた矢先のことだった。コロナ禍という未曾有の危機に直面し、一部の「モノ」への需要が高まり、分捕り合いが起こる事態に立ち至った。感染症が世界的に拡大するときに、まさか必ずしも高度とは言えない「ものづくり」が強い武器になろうとは、いかに中国共産党といえども想像できなかったに違いない。アメリカは、早速、朝鮮戦争が始まった1950年に成立した国防生産法を発動し(とは言っても、これまで既に50回近く発動し、戦争や自然災害と戦って来た)、GMやフォードが人工呼吸器の製造を始めている。そればかりではない。コロナ禍がイデオロギー対決を煽り、米中摩擦が激化することになって、トランプ政権はリスク分散のため、生産の中国外への移転や国内回帰を戦略的に進めようとしている。日本も、アメリカほどの規模ではないものの、医療用品をはじめとして、生産の国内回帰に助成金を出すことを決めた。
もとより、いったん確立された「世界の工場」としての立地の優位性は、そう簡単に揺らぐことはないだろう。電力・水道などのインフラや、港湾・空港などの物流ネットワークのほか、材料・部品などの産業や熟練労働力が集積し、時間をかけて発展を遂げて来た言わばエコ・システムを、東南アジアの国がおいそれと短期間に構築できるものではないだろう。しかし少し長い目で見れば時代の流れではある。
そもそも国際的な生産の移管は、かつて開発途上だったドイツや日本の生産技術が高まったことに始まった。今では信じられないが、その初期にはMade in Japan が(米国に比較し)「安かろう悪かろう」の代名詞とされた時代があったし、それ以前にはMade in Germanyが(英国に比較し)「安かろう悪かろう」の代名詞とされた時代があった。その日本が、開発途上の中国に生産を奪われる構図は時代の流れには違いないが、多少、皮肉な言い方をするならば、その地理的な近接性と文化的な近接性、まさに「地の利」がある気安さと、何より日本の10倍を超える人口を擁し、その労働供給力は無尽蔵とも言えるほどで、赤信号を皆で渡るように、ちょっと危ないかも知れないという危機意識を抑えながら、国際的コスト競争力維持のお題目のもとに、安易に生産移管を決定する傾向があったように思われる。そこには、鄧小平氏が改革開放に当たって松下幸之助氏に頼ったように、中国共産党による戦略的な「甘い誘惑」も働いた。「磁場」に引き寄せられると形容したのは、その意味だ。
今回のコロナ禍は、行きすぎたグローバル化への反省が高まる中で、頼るべきものが国家である現実を完膚なきまでに再確認させた。本来、国境を越えて広がる感染症は、環境問題と同様、国際協力が不可欠で、アメリカのような大国こそ国際公共的な役割を率先して負担して然るべきと期待されるところ、そんな余裕は微塵もなく、アメリカ・ファーストの流れはむしろ強まるばかりである。中国は大国として振舞いたがるくせに、アメリカ同様、コスト負担を引き受ける意思はなく、むしろ全ての行動は核心的利益の第一としての「中国共産党による統治」の正当性を示すことに収斂するため、情報隠蔽にせよ情報操作にせよ、権威主義的で閉鎖的な性格はすっかり信頼を喪失した。EUは公衆衛生に対処することがそもそも想定されていないため、EU加盟各国が個別に対応するほかなく、かつてシリア難民に対しては国境を開いていたのにコロナウイルスに対しては挙って国境を封鎖してしまった。本来、活躍すべきWHOは、別の意味で中国の「磁場」に引き寄せられ(笑)、公平性や中立性が怪しまれて、中国と同様、すっかり信頼を喪失した。
ポスト・コロナの時代は、全く新たな秩序が形成されると言うより、これまでの歴史の歩みが加速すると言われる。グローバル化への反動と、国家を中心とする国家主義とでもいうべきものへの揺り戻しはまさにそうだし、アメリカや中国の動きを見ていると、技術や経済だけではなくイデオロギー(あるいは体制のあり方)においてもデカップリングが加速して行く気配が濃厚であるし、身近なところではテレワークや遠隔医療やネット授業などITの利活用が進むきっかけになるのは間違いないところだ。そうであればこそ、3年前のフォーリンアフェアーズ誌で、プリンストン大学のジョン・アイケンベリー教授が、トランプ大統領の登場を受けて、これからのリベラルな国際秩序を守るのは、日本の安倍首相とドイツのメルケル首相の双肩にかかっていると期待を表明されたように、それぞれの国家の威信を守りつつも、同時に、治療薬やワクチンの開発で協働し、置き去りにされた発展途上国を救済するなど、国際協調を取り戻す、第三極としての日本とEU諸国に期待される役割は小さくないように思う。